2022年12月15日(木)福智西山城跡
佐野氏の城と伝わる場所です。
- (2022年12月18日(日) 午後11時30分27秒 更新)
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平らになっているところが城跡と伝わります。
奈良県遺跡地図にはない山城跡
「狭川・歴史マップ」(狭川地区万年青年クラブ連合会・狭川地区自治連合会・狭川地区社会福祉協議会、平成30(2018)年11月)に「福智西山城跡」が「室町時代の佐野氏の城跡、現在は畑」と紹介されています。また、明治22年に作成された西狭川村実測全図でも、「福智西山城跡」とされる付近に「城山」という地名が記載されています。
「城山」という字が書かれています。
しかし、「福智西山城跡」は、奈良県遺跡地図には記載がなく、奈良県「奈良県中近世城館跡調査報告書」(2020)でも調査対象とされていません。専門的な調査が見当たらないことから、「福智西山城跡」を城跡と評価して良いのか不明ですが、実際に現地を訪れてみたところ、切岸や土塁らしき地形を確認することができました。
ただ、主郭に当たる頂上の平坦地は、既に畑が放棄され一面の笹藪となっており、外側を回ることしかできませんでした。試みに縄張り図を作成しましたが、見通しが利かなかった頂上部分をはじめ、あまり正確ではありません。
城跡らしき地形
北東側には1.5mほどの土塁のような地形がありました。また北西側から北東側にかけて、明瞭に切岸らしき地形があり、南西側にも切岸の痕跡らしき段差が山裾を巻いていました。北西側には土塁状地形が全くなく、南西側でも0.5mほどの低い土塁状地形しかありませんでした。もしこの場所が城跡であるなら、後世耕作地とされたときに、北西側と南西側の土塁は崩されたのかもしれません。
現存する地形からは南西側の防御が手薄なように思えますが、南西側の土塁を崩した時に切岸が埋められたとすると、元は南西側にも北東側に近い規模の切岸があった可能性もあります。
一方南側には土塁や切岸などの防御設備らしきものは見当たりませんでした。現在車道となっている安郷川沿いの道は近代以降に作られました。つまりこの城跡(?)が作られた頃、城跡の南側には安郷川の渓谷しかありませんでした。そのため南側には防御設備が必要なかったとも考えられます。
この場所が城跡かどうかは定かではありませんが、この場所が古くからある古道を押さえるのに適した場所であることは確かで、城が築かれても全くおかしくないと思います。
頂上部一面の笹藪。少し入り込んでみたものの引き返すのも一苦労でした。
北東側の土塁らしき地形。
北の角。
北東側の切岸。
大畑〜福智西山城〜下狭川行者堂〜歯痛地蔵〜国境の弁財天〜前椚古墳群 / 弥勒の道プロジェクトさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
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