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2022年4月8日(金)北村城跡・北村西出城跡

  • 北村町北の山の上に北村城があります。

  • (2022年10月2日(日) 午後11時24分31秒 更新)
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山頂が長方形の平坦地となっています。

山頂が長方形の平坦地となっています。

狭川氏が最初に築いた城?

慶應2(1866)年「和州郷士記書抜」に、狭川氏は讃岐国出身であり、初めは北村に住み、その場所を「讃岐山」というと書かれているとのことです(島津俊之「奈良東山中「新西国三十三所」と村落間結合」1990年12月 http://hist-geo.jp/img/archive/151_001.pdf )が、明治22(1889)年の北村実測全図を見ると、確かに「城山」の東に「サヌキ」という字が書かれています。北村城は、讃岐から移ってきた狭川氏が、この地で最初に築いた城館なのかもしれません。

実はこの北村城から、尾根道を西へ300mほど行ったところに、出城の跡のようなところがあります。仮にこれを「北村城西出城跡」と呼びますが、南北40m、東西30mほどの楕円形に空堀のようなものが掘られ、空堀に囲まれた一段高い中央部の上面が平坦地となっている場所です。

北村城西出城には出入口らしき場所がありません。ただ、尾根道の北村城側から分岐して出城の方へ向かう道があり、その道は空堀の北側に出てきます。空堀で行き止まりとなるこの道は、道の突き当たりから空堀に囲まれた平坦地(郭)に木橋を渡せば、木橋を使って出城に出入りができそうな位置関係となっています。

ちなみに東里村史(1957、407頁)に「城山の尾根続きの西方に出城と見なすべき小壘跡の一郭があり、東北部に壕をめぐらしている」とあります。しかし北村城西出城跡は空堀らしきものが四方を囲んでいるため、東里村史の記述とは合わないようです。東里村史の記述と合う空堀のような場所は、北村城近くにありますが、空堀というより長い年月で道が窪んだものに見えます。

北村城西出城跡は、当尾から大畑の尾根道を経て、大畑のすぐ北で安郷川沿いに狭川へと下っていく古い街道に近く、その街道から北村城へ続く尾根道の入り口付近にあります。実際、北村城西出城跡から大畑の尾根道がよく見えました。この場所は、北村城の守りにとって重要な位置に思えるので、この空堀に囲まれた場所が出城跡である可能性はありそうに思います。

北村城・北村城西出城跡縄張り図

北村城・北村城西出城跡縄張り図。北村城跡縄張り図の作図にあたっては、踏査に加え、「奈良市史 通史二」520頁の縄張り図を参考にしました。北村城南東の腰曲輪については、侵入が憚られる状況だったため確認していません。

北村実測全図(明示22・1889)北村城付近

北村実測全図(明示22・1889)北村城付近。「城山」の東に「字サヌキ」と書かれています。

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