2022年5月3日(火)須川町下手行者堂
狭川と須川の境界となっている尾根の上にあります。
- (2022年7月25日(月) 午後3時36分0秒 更新)
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林道からの山道もきれいに整備されています。
雨乞いの儀式のゴール地点
大正4年(1915)に奈良県の依頼で須川尋常高等小学校長だった農澤松吉氏らが編纂した須川村風俗誌が、東里村史(昭和32年(1957))に収められています。その中に「須川の行者様」に触れた下記記述があります(「東里村史」昭和32年(1957)、359頁)。
須川の上出と、下出の村に行者様を御まつりしているが、乾天つゞきになると、村中協議して、各戸に大きな松明を作り、日をきめては村中総出で、先づ上出の行者様に参り、延々松明の列をなして下出の行者山へ参り雨乞をする。すると霊験あらたかに雨が降る。
下手行者堂は雨乞いの儀式のゴール地点だったようです。スタート地点の上手行者堂は、須川の集落がある谷の南の端にある尾根の上にあります。一方、下手行者堂は須川と狭川の境目にありますから、須川で雨乞いの儀式が行われた際には、大きな松明の行列が、須川の南の端から北の端まで練り歩いたようです。
お堂の中には、石造りの役行者像が収められています。おそらく明治期の廃仏毀釈で激しく破壊され、その後、破片を組み合わせ修復されたのでしょう。台座に「明和四年」の銘がありますので、元々はその頃造立されたと考えられます。
すぐそばに「金毘羅神社」の石碑
下手行者堂のそばに「金毘羅神社」と書かれた石碑がありました。狭川家所蔵の慶応2年(1866)「和州郷士記書抜」に次のような記述があるといいます(島津俊之「奈良東山中「新西国三十三所」と村落間結合」1990年12月、11頁)。
福智城主狹川新七助貞(中略)本国讃州之人大和エ来初添上郡北村エ住[古今此所を讃伎(ママ)山ト云]應永元年筒井順永法印之命ニより麾下ト成城郭造営北村狹川村ニテ領
狭川氏は讃岐国出身だというのですが、そうすると、狭川と須川の境に金毘羅神社があったとすれば、狭川氏の影響があった可能性もありそうです。
「金毘羅神社」。奈良市史と東里村史には、金比羅神社についての記述がありませんでした。
富士講碑・愛宕権現像
下手行者堂のそばには、富士講碑と愛宕権現の石像がありました。この辺りでは富士講は珍しいと思います。
「冨士千現大菩薩」。「千現」は「浅間」の当て字でしょう。
愛宕権現の本地仏は勝軍地蔵とされているので、武者姿の軍神として表現されています。左側面に「明和四年(1767)丁亥二月吉日」、右側面に「施主 羽□善七」。
お堂の周囲はきれいに掃き清められ、今も地域の皆さんから大切にされていることが伝わります。
お堂の側面には掃除道具が置かれていました。
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