2016年6月18日(土)「中川寺成身院を学ぶ会」主催の講演会を聴講してきました
京都大学の冨島義幸先生をお迎えしての奈良歴史文化講演会です。
- (2016年7月1日(金) 午後9時49分32秒 更新)
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イスが足りないほどの盛況でした。
「中川寺成身院の仏教空間とその意義」
京都大学、冨島義幸先生のご講演はとてもおもしろかったです。冨島先生は工学研究科のご出身で、もともとは建築工学を専門にされていたそうですが、いつしか仏教建築やその内部構造に心惹かれるようになり、今では醍醐寺にこもって国宝の古文書「醍醐寺文書聖教」をひたすら読み解くのが至福のときなのだとか。
今日のご講演は、その「醍醐寺文書聖教」に遺された「伝法灌頂指図
さてここからが冨島先生の名推理の始まりです。実は、醍醐寺の伝法灌頂指図前半部分とほとんど同じ指図が、金沢にある称名寺に遺されているのだそうです。しかもそこには醍醐寺にはないヒントまで書かれているといいます。下画像は講演会で配られた、醍醐寺と称名寺の指図を比較した資料です。
上が醍醐寺に伝わる指図で下が称名寺に伝わる指図です。お堂の構造も、真言八祖図(龍猛、龍智、 金剛智、不空、善無畏、一行、恵果、空海)の配置もほぼ同じです。大日如来を本尊とし、不動明王と准胝観音を祀る点も共通しています。また上概略図にはありませんが、両寺に伝わる指図には、お堂の南西に例時堂が描かれており、その例時堂の位置も、例時堂の前に設定され、例時堂を過ぎたところで西に折れる筵道の形もぴたりと一致します。例時堂の東面に石垣のような凸凹の線が描かれているところまでまったく同じです。
異なる点として、称名寺に伝わる指図では左奥に「本願」が加えられています。この場合「本願」とは、その寺院の開祖を言うのだそうで、このことから称名寺に伝わる指図は、開祖が亡くなった後に書かれたとわかります。称名寺に伝わる指図の奥書には、宝治元年(1247)に、最盛が「慈尊院」から借用した伝法灌頂式によるとあり、このお堂がある寺院の開祖は、それより以前に亡くなったということでしょう。また、称名寺に伝わる指図では、最前面の柱が一間分前に移動しており、二つの指図が同じお堂を描いているとすれば、醍醐寺に伝わる指図が書かれたあと礼堂部分を拡張したのだろう、ということもわかります。
ところで、この指図からはお堂の形も推定できるのだそうです。このお堂は正面から見て、柱の間が五つ(五間)あります。よく見ると、中央の母屋部分を囲む柱は、左右が建物の内側にはなく、外壁に接しています。ということは、左右に庇がなかった可能性があります。もしそうであれば、このお堂は母屋から前後に長くゆるやかに庇が伸びる切妻屋根だったはずです。礼堂拡張後は前の庇がいっそう長く伸びる特徴的な形だったことでしょう。
切妻屋根だったとすると、このお堂の形は滋賀県野洲市にある円光寺本堂に似たものだったと考えられるとのことです。円光寺本堂についてはこちらのブログ記事「日本建築は面白い「円光寺本堂」|日中韓文化地めぐりのブログ」がわかりやすかったです。たしかに指図に描かれたお堂の構造とよく似ています。
称名寺に伝わる指図には、醍醐寺に伝わる指図にはない情報も書き込まれており、仏後壁の表(南面)に「十二天」が、裏(北面)に「大師帰朝様(弘法大師が日本に帰ってきた時の伝説を絵にしたもの)」が描かれていたとわかります。このことは、このお堂がどこのお寺のものなのかを特定する新たな条件となるはずです。
南都と密教
このあと冨島先生は、指図に描かれた情報を元に、謎のお堂があった寺院を絞り込んで行くのですが、その過程で明らかになるのは、南都と密教の深い関わりでした。
まず取り上げられたのは内山永久寺真言堂です。永久寺真言堂は保延2年(1136)、醍醐寺系の真言と法相を兼学した、興福寺大乗院院主の頼実が供養しました。その供養会では「小田原現観房上人」が導師を勤めたことが、記録からわかっています。「小田原」とは浄瑠璃寺あたりのことを言いますから、小田原現観房上人は浄瑠璃寺などと関係のある僧だったと見られます。あとでも触れられますが、意外なことに、浄土信仰の色濃い浄瑠璃寺でも、当時密教は重要な位置を占めていました。ともあれ、創建時期といい醍醐寺との密接な関係といい、内山永久寺真言堂は謎のお堂の候補としてふさわしいように思えます。
内山永久寺真言堂については醍醐寺に永久寺指図が残っており、この指図によって、謎のお堂との比較が可能です。永久寺真言堂は、本尊を大日如来とし、東西に仏台を設け両界曼荼羅を懸ける点や、真言八祖を並べる点は、謎のお堂と一致しますが、不動明王と准胝観音が祀られない点と、十二天を描いた仏後壁の背面に四天王が描かれている点が一致しません。また建物の正面が七間あり、正面の柱間数があわないとのことです。さらに江戸時代に描かれた伽藍図を見ると、永久寺真言堂の南西には池があって、例時堂らしきお堂が見当たりません。したがって、これら不一致点の多さから、内山永久寺真言堂は、謎のお堂ではないとわかります。
このようにして、冨島先生は候補となり得る仏堂をひとつひとつ詳細に検討していったとのことです。そして最終的に残ったのが中川寺成身院でした。このあたりについては、冨島先生の論文「推定中川寺成身院指図について」(醍醐寺文化財研究所「研究紀要」21,2006)が詳しいです。あまり図書館に置いてありませんが、このへんだと平城宮跡横の奈良文化財研究所にある図書室にありました。国会図書館関西館にもあるようです。
中川寺成身院は、天永3年(1112)ごろ実範により創建されました。西大寺蔵の風鐸に永久2年(1114)の銘があり、このころには完成していたとみられます。実範は興福寺で法相を、勧修寺厳覚から真言密教を、比叡山横川明賢から天台を学びました。明賢の元で天台を学んだとき、源信の流れをくむ念仏を受け継いだと言われ、これが中川寺発祥の進流声明のもととなったようです。中川寺の声明は後に高野山に引き継がれ南山進流声明となりました。
実範が興福寺で学んでいたころ、興福寺の権別当は一乗院範俊で、範俊は小野曼陀羅寺の成尊から密教を学び、白河天皇の護持僧を努め「鳥羽僧正」とも呼ばれていたそうです。範俊、厳覚から小野流の真言密教を伝授された実範は、後に高野山の教真からも法を授かり、勧修寺流の異流である中川流を形成しました。また実範は、興福寺欣西の求めにより、東大寺戒壇院受戒式を著すなど、戒律復興に力を注いだことでも知られます。実範は、貞慶、叡尊ら、鎌倉時代の戒律復興の源流にあたる存在でした。
中川寺成身院は「東大寺雑集録」や中ノ川に残る古い小字などから、弥勒院・清浄院・地蔵院・瓦坊・東北院・仏眼院・十輪院・薬師院・三蔵院など、多数の子院を抱えていたことがわかっています。この他にも聖教の奥書に「南都中川法泉坊」・「中川舎利堂西坊」・「中川無量寿院」・「中川釈迦文院」などが見られるとのことです。
それから、冨島先生が今回の講演を準備するため、「興福寺大乗院寺社雑事記」を見直してみたところ、文明十三年の記事に「例時堂」に関するものがあったそうです。
ちなみに、中川寺が古市氏に一山焼き払われた、1481年7月21日の記事には次のように書かれています。この日は明け方に大雨が降り、日中は晴れたものの、夕方からまた雨が降ったようです。
あっているかどうか自信がありませんが、現代語に意訳すると次のようなかんじでしょうか。
「明け方、中川寺に軍勢が向かい、本堂ばかりを残してことごとく焼き払った。堤の手の者ならびに古市の手の者が進軍した。この寺の僧侶四人が打ち殺された。一山ことごとく昨日より成身院氏に伴い福住へ出陣しており、ちょうど留守であった。気の毒なことである。一山滅亡とはつくづく嘆かわしい。寺号のおおもとは成身院という。一乗院殿の末寺である。軍勢を引き入れたのはこの寺の僧侶、無量寿院(古市の家臣)と平清水源さ衛門(須川)という。」
無量寿院というのが子院の名前なのか、僧侶個人の名前なのか、よくわかりませんが、ともかく中川寺内に裏切り者がいて、古市氏を引き入れたようです。明け方大雨をついて、もぬけの殻となっていた中川寺に、突如軍勢が押し寄せたわけですから、中川寺に残った僧兵だけではどうすることもできなかったのでしょう。
この記事の前後には、当時のきな臭い状況が伝わる緊迫感のある記述が並んでいます。誰それがどこへ出陣した、誰それが大和国に入った、そんな記述ばかりで、大和国のあちこちで戦乱が続いていた生々しい様子が伝わってきます。
冨島先生のお話に戻りましょう。中川寺成身院内部の荘厳については、鎌倉時代に新義真言宗を確立した頼瑜(1226〜1304)が撰述した「真俗雑記問答紗」に、くわしい記述があるといいます。この記述は、頼瑜が中川寺成身院を実際に訪れて書いたもので、信頼性が高いとのことです。
その記述とさきほど検討した指図の特徴を比べると、東西に仏台を設け両界曼荼羅を懸けている点や、本尊が金剛界大日如来である点がぴたりと一致するのだそうです。さらに「真俗雑記問答紗」には、仏後壁の表に十二天が描かれていることだけでなく、その背面に、弘法大師が唐から帰朝する際、布教の場を求め三鈷杵を投げた場面が描かれていることが書かれており、この記述はまさに称名寺に伝わる指図の通りです。このように、頼瑜が残した中川寺成身院の記録と、指図の特徴は完全に一致しており、醍醐寺に伝わる指図に描かれた謎のお堂は、中川寺成身院と見てまちがいないとわかったわけです。
また、頼瑜は両界曼荼羅の背壁に描かれた絵についても、それぞれの特徴を細かく書き留めているのですが、その記述は内山永久寺にあった障子絵とそっくりなのだといいます。このことは中川寺と内山永久寺の間にあった交流を物語ると同時に、中川寺成身院内部の荘厳を想像するひとつの手がかりとなることでしょう。
さて、こうして謎のお堂の正体をさがして、とうとう中川寺成身院にたどりついたわけですが、大日如来と両界曼荼羅を安置する仏堂は他にも存在したようです。
頼瑜は「真俗雑記問答紗」で「高野伝法院、中川成身院、是倶写青龍寺作法」と書いています。つまり、高野山大伝法院と中川寺成身院は、空海が中国で恵果から密教を学んだ青龍寺にならっているというのです。しかし、空海の宮中真言院や東寺灌頂院では、両界曼荼羅を懸けるものの本尊として彫刻の仏像は安置しません。その点、中川寺成身院は、空海からの伝統を受け継ぎながら、本尊として大日如来を安置するところに独自性があると言えます。
高野山大伝法院は大治5年(1130)、覚鑁が一間四面の小さな伝法堂を創建したことに始まります。創建当初は、尊勝仏頂を本尊とし両界曼荼羅を懸けていましたが、手狭だったため二年後の長承元年(1132)、大伝法院として三間四面桧皮葺堂に改築し、丈六(一丈六尺=立像換算で4.8m)の大日如来、尊勝仏頂、金剛薩埵を安置して両界曼荼羅を懸けるようになりました。この大伝法院の供養会には鳥羽院の行幸があったといいます。
覚鑁は、新義真言宗の開祖で、浄土教を真言教学から捉え直し真言阿弥陀信仰の教学を確立しました。後に大伝法院は頼瑜によって根来に移転し現在の根来寺となります。
実範は、ほぼ同時代を生きた、真言宗中興の祖、覚鑁の陰に隠れ、これまであまり注目されてきませんでした。しかし、中川寺成身院が創建されたのは天永3年(1112)ごろで、同じく大日如来を本尊とし両界曼荼羅を懸ける、覚鑁の大伝法院より遡ること20年も前のことでした。覚鑁の真言阿弥陀信仰にも、実範はその著作などを通じ確実に影響を与えています。冨島先生は、実範はもっと注目されてもいいのではないかとおっしゃっていました。
くわえて言えば、中川寺成身院は、永久3年(1115)創建の醍醐寺三宝院よりも早く、大日如来と両界曼荼羅を懸ける仏堂の先駆けでした。いわば最先端のお寺だったわけです。
そんな当時の仏教最先端を行く中川寺のすぐ近くには、浄瑠璃寺があります。浄瑠璃寺は、現存唯一の九体阿弥陀堂と園池で知られ、いわゆる「浄土教」の観点から評価されてきましたが、実は密教の影響も強く受けているのだといいます。
現在浄瑠璃寺灌頂堂に安置されている大日如来は、作風から1170年代後半から1180年代前半の作と言われています。像高は61cm(三尺規模)で醍醐寺三宝院の大日如来像とほぼ同じ大きさです。もとは秘密荘厳院の本尊だったとも言われます。ちなみに運慶作とされる円成寺大日如来像は安元元年(1175)ごろの造立で、ほぼ同じ時期の像です。
浄瑠璃寺秘密荘厳院は今はありませんが、「浄瑠璃寺流記事」に、承安元年(1171)、弥勒三尊を安置していた一間四面の十万堂を三間四面に改築して秘密荘厳院としたことが書かれています。翌年の供養には中川寺の僧侶も参加しました。現在浄瑠璃寺灌頂堂に安置されている大日如来像は、この秘密荘厳院にあわせて造立されたものとも考えられています。
また「浄瑠璃寺流記事」には、承安元年(1171)の記事に「八祖御影供始行之」とあり、浄瑠璃寺も真言八祖を祀っていたことがわかります。さらに建久7年(1196)の記事に「真言堂(秘密荘厳院が改称されたもの)夏中供養法両壇シテ始行之」と書かれていることから、浄瑠璃寺でも両壇による供養法、すなわち両界供養法が行われていたようで、これは醍醐寺三宝院の長日両界供養法と同じものとのことです。
延応2年(1240)、秘密荘厳院改め真言堂はさらに改築されて五間四面に拡張されました。これは醍醐寺三宝院と同じ規模です。その供養会には醍醐寺座主実賢のほか、随願寺、中川寺からも参加者があり、このことからも醍醐寺と小田原・中川寺との密接な関係がうかがい知れます。
以上の記録から、浄瑠璃寺真言堂もまた、大日如来と両界曼荼羅を安置する仏堂であった可能性が高いと言えます。なお現在の浄瑠璃寺灌頂堂(宝池の北にあるお堂です)においても、大日如来像を本尊としてその両脇に両界曼荼羅が懸けられています。浄瑠璃寺の大日如来像は、実際に見ると小さく感じます。浄瑠璃寺の九体阿弥陀像の前では存在がかすんでしまうというのが正直なところですが、この大日如来像もまた、実は平安時代の末からずっと浄瑠璃寺にあって、醍醐寺や中川寺と同じように、大日如来を本尊として両脇に両界曼荼羅を懸ける形で安置されていました。中川寺成身院の伝統は、中川寺跡から1キロと離れていない、こんな近くの浄瑠璃寺にもひっそりと息づいていた、というわけです。
さて浄瑠璃寺と密教の組み合わせというのも現代のイメージからは意外な印象を受けますが、密教は中世の南都仏教にも大きな影響を与えていたようです。実は、治承4年(1180)の南都焼打後再建された東大寺大仏殿には、大仏の左右に両界堂(東=金剛界堂/西=胎蔵界堂)が作られていました。
講演会資料より。下にある指図が大仏殿の指図です。大仏の左右に両界堂が描かれています。この両界堂では曼荼羅を懸けられず、毘盧遮那仏を両界曼荼羅と見立てて、長日両界供養法が執り行われていたといいます。大仏殿における長日両界供養法を始めたのは醍醐寺の勝賢で、勝賢は東大寺東南院院主、東大寺別当を歴任し、建久6年(1195)の大仏殿再建供養会では呪願を勤めました。
意外に思えますが、東大寺と真言密教の関係は古く、承和3年(836)には、早くも空海自身が東大寺内に真言院を置いているそうです。また空海の孫弟子にあたる聖宝(832〜909)が創建した東大寺東南院もまた、三論と真言密教兼学の道場でした。聖宝は貞観16年(874)に醍醐寺も創建しています。
そして保延6年(1140)の「七大寺巡礼私記」になると、「抑此像寺家皆謂大日」という記述があり、このころ東大寺(寺家)では毘盧遮那仏(大仏)を大日如来と呼んでいたようです。逆に、承暦元年(1077)に建立された法勝寺金堂の大日如来像には、東大寺の毘盧遮那仏と同じく蓮華座の華葉に釈迦があらわされていたといいます。当時、顕教の蓮華蔵世界の毘盧遮那仏と、密教の両界曼荼羅の大日如来を融合する考え方が、広く浸透していたようです。
これまで見てきたように、院政期、京都と奈良の仏教は決して断絶していませんでした。とりわけ中川寺は真言密教を核にした京都と奈良の結節点だったと言えます。中川寺は、大日如来を中心とする先駆であり、その思想は覚鑁にも影響を与えました。冨島先生によれば、実範の仏教は、密教を核として諸宗の仏教を総合したもので、宗派を超えて広く仏教を学び、実践していく院政期仏教の特質がよく表れているとのことです。
今回のご講演内容についてくわしく知るには、冨島義幸「推定中川寺成身院指図について」(醍醐寺文化財研究所「研究紀要」21,2006)のほか、森雅秀編著「アジアの灌頂儀礼 その成立と伝播」(法蔵館,2014)所収の、冨島義幸「日本中世における灌頂・修法空間の展開」がおすすめです。
ということで、配られたレジュメなどを参考にしながら、冨島先生のご講演をまとめてみました。一部、この記事を書いた中の人の勝手な思い込みや感想が混ざっています。ここに書かれていることには、冨島先生の見解と異なる部分がある可能性がありますので、どうぞご注意願います。
ちなみに冨島先生は、2016年11月26日(土)に、「木津の文化財と緑を守る会・木津川市・興福寺」主催の「第84回 ふれあい文化講座」でも「(仮)浄瑠璃寺の仏教建築について」というテーマでご講演されます。会場は木津川市の中央交流会館(いずみホール)で、受付が13時から(開演13時30分~16時30分)です。先着順200名、参加費は無料で、どなたでも参加できるとのこと。ぜひ!
中川寺成身院と例時堂はどこにあったのか?
さてこうなると気になるのが、中川寺成身院本堂(?)と例時堂がどこにあったのかです。下図は冨島先生のご講演でも、スライドで紹介された、醍醐寺に遺された指図です。冨島先生の論文「冨島義幸『推定中川寺成身院指図について』(醍醐寺文化財研究所「研究紀要」21,2006)」p201を写真に撮りました。
一番上の図を見ると、正面が五間あるお堂(五間堂)の南西に正面が三間あるお堂(三間堂)があります。そして、五間堂から南に伸びた筵道(通路)が、三間堂を過ぎたところで直角に西に折れています。冨島先生は、指図の別の箇所(一番下の図)から、この三間堂は「例時堂」だとしています。
ところで天台宗には、毎夕定時に引声
冨島先生の推測通り、この指図が中川寺成身院本堂のものだとすると、成身院本堂は南面しており、すぐ南西に小さな例時堂があって、例時堂のすぐ南から西に折れる通路があった、ということになります。以上の条件を元に、中川寺跡とされる谷に残る四角い平坦地のうち、どこに成身院本堂があったのか、推測してみました。
下図は、戦後すぐ米軍が撮影した航空写真(出所:国土地理院)に、現地でみつけた四角い平坦地を重ねたものです。
古い航空写真を見ると、水田の区画にも中川寺のなごりがあるように見えます。中でも目を引くのが、谷の東西をつなげるかのような、きちんとした長方形の区画です。そして、ちょうどその長方形の区画から、東西の尾根へまっすぐスロープが取り付けられています。長方形の区画も東西へ伸びるスロープも、ほぼ正確に東西南北が意識されており、人工的に作られたものであることは間違いないと思います。
東西南北の線が交わる、この長方形の区画があるあたりは、中川寺の中心だったのではないでしょうか。だとすると、本堂はこの付近にあったと考えるのが自然です。そしてお堂から南に伸びた筵道が、直角に西へ曲がり得る場所でなければなりません。
結論から言えば、この条件を満たす場所は、A地点ではないかと思います。西側のB地点でもいいのですが、この場所は少し狭く、三段の平坦地が並んだ子尾根が、B地点の西側で急に落ち込み、崖のようになっていて(おそらくB地点の四角い平坦地を造るために掘り下げたものと思います)、本堂を作るようなふんいきではないのです。
ところで上図の濃い青の線は、現在の水路を表しています。南から流れてきた水は、谷の東側を流れくだった後、長方形の区画に沿って直角に西に折れ、西岸に接したところで、今度は谷の真ん中を北へ流れて行きます。この水路は、もしかすると、かつてあった池に沿って掘られているのではないでしょうか。
また、頼瑜の記述によれば、中川寺には塔があり、胎蔵界五仏を安置していたといいます。胎蔵界ということは、その塔は谷の東側にあった可能性が高いでしょう。上画像にある紫の四角は、もっとも高い位置にある平坦地です。このあたりに塔が建っていたと想像することは、それほど突飛な発想ではないだろうと思います。
もし、本堂がA地点にあり、ここで伝法灌頂が行われたと想定すると、僧侶の列は西側から、池の間の廊下のような道を渡り、石段を上って北に折れ、谷底より少し高い位置にある本堂へと進んで行くことになります。そして池の端から本堂を見上げれば、本堂の向こうにある山に塔がそびえ、その相輪がきらきらと輝いていたことでしょう。想像するだけで、壮麗な儀式にふさわしい場所だと感じます。
また本堂がA地点にあった場合、西のスロープの延長線上に例時堂があったことになります。指図にある例時堂は三間の小さなお堂だったようですから、お堂の外にも僧侶が並び、西に向かって声明を唱えたのではないでしょうか。中川寺には「無量寿院」など阿弥陀信仰を思わせる子院があったようです。ということは、例時堂の背後にある西の尾根には、例時堂とは別に阿弥陀堂が建てられていたかもしれません。
本堂の前庭で、例時堂に向かって居並ぶ僧侶が、毎夕、浪々と声明を響かせる、そんな光景が思い浮かびます。その幾重にも重なり合った伸びやかな声は、ちょうど目の前にある西の尾根にぶつかり、こだまして、子院建ち並ぶ中ノ川の谷間のすみずみにまで、美しく響き渡ったことでしょう。
下写真はA地点のあたりです。魚眼レンズで撮影しているので、実際にはもう少し広いスペースです。右下に谷底から登ってくるスロープがあり、A地点の平坦地につながっています。ここはかつて石段だったのではないかと思います。
この場所に、滋賀県野洲市の円光寺本堂のような切妻屋根のお堂があったのかもしれません。そんなことを想像してみると、すごく楽しいです。
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