2021年3月10日(水)藤尾城跡
下狭川城の南東900mほどの山中にある山城跡です。
- (2021年3月13日(土) 午後5時29分16秒 更新)
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平坦地と土塁
筒井順慶の陣城?
藤尾城跡は、1991年に永井隆之氏によって発見されました(「奈良市史 通史二」1994、520頁)。その後、奈良柳生カントリークラブの造成によって、藤尾城跡の三つの曲輪の南側にある平坦地は、一部が現在グリーンの下に埋れています。
ちなみにその辺りにはかつて薬師堂がありました。そのお堂は狭川地域では最も古い建築だったと言われます。ところが明治時代初頭、神仏分離で多くの寺院が廃寺となる中、この薬師堂は本尊の薬師如来坐像とともに、現在の中墓寺に移されたといいます。しかし現在中墓寺にこの薬師堂はなく、新たに建てられた収蔵庫が薬師堂として使われています。
薬師堂が移転した後も、薬師堂跡周辺には室町時代の磨崖仏や石仏が散らばっていたそうです。薬師堂跡にあった石仏には、地蔵菩薩像(桃山)、自然石彫込六地蔵菩薩像(室町)、磨崖阿弥陀如来像(磨崖線刻不動明王像)、自然石梵字種字碑(室町)などがあるようですが、これらの石仏は、現在ゴルフ場の敷地内にある「石仏公園」に安置されているため、柵の外からは、後ろ姿しか見られませんでした。
さて藤尾城の三つの曲輪を実際に見て回ると、下狭川城がある北西側と街道のある北東側に、各曲輪の土塁が築かれていることに気がつきました。特に北西側の土塁は高く堅固に築かれていました。南東側にも土塁はあるものの、北西側に比べると規模が小さいように思われました。
藤尾城は狭川氏の山城とも言われます。しかし狭川氏の山城とすると、各曲輪の北西側の土塁の方が高いのは不自然です。奈良市史では藤尾城の成り立ちを推測して、筒井順慶が狭川氏の動きを制するため、戦国時代末期に築いた陣城だろうとしていますが(「奈良市史 通史二」1994、520-521頁)、実際に現地を見るとこちらの説に説得力を感じました。
前述のように藤尾城の南側は薬師堂があったとされる場所ですから、元々あった山岳寺院を陣地として利用しつつ、狭川氏を睨んで寺院北側の尾根筋を陣城として造成したのが、藤尾城なのではないかと思います。
上図は、「奈良市史 通史二」1994の521頁にある藤尾城跡の縄張り図です。薬師堂跡から北西方向に伸びる尾根に、同じくらいの規模の曲輪が三つ並んでいます。曲輪の間には深い空堀が彫られていました。その土を利用して、各曲輪の特に北西にうず高く土塁を盛ったように見えます。
奈良柳生カントリークラブ北にあるため池。ため池の西側の斜面を登ると藤尾城跡です。
曲輪の間にある深い空堀。
曲輪の北西側にある土塁跡。
奈良柳生カントリークラブ敷地内にある「石仏公園」。柵越しには石仏の後ろ姿しか見えません。
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