2018年2月11日(日)浄瑠璃寺西大門と大門仏谷磨崖仏
浄瑠璃寺西大門がどこにあったのかは、今もわかっていません。
- (2018年6月8日(金) 午後2時2分6秒 更新)
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大門仏谷磨崖仏
西大門に由来する「大門」
大門仏谷の「大門」という地名は、浄瑠璃寺西大門に由来すると言われています。浄瑠璃寺流記事の貞応二年(1223)の記事に、「同年七月十七日、西大門造営事始メ」とあり、この年に西大門が建てられたことがわかります。当時、西小田原山浄瑠璃寺と並んで、東小田原山隋願寺も一定の寺勢を誇っており、西大門は小田原山全体の門として構想されたものとみられます。現在でも、この道を登って行くと、やがて藪の中三尊に突き当たり、右に行けば浄瑠璃寺、左に行けば隋願寺跡に至ります。しかし、こののち隋願寺が火災などにより衰退したため、西大門が再建されることはありませんでした。
この西大門がどこにあったのかは、現在もわかっていません。ただ、尾根筋をたどって大門の集落を抜けたところ、尾根が切れ落ちる直前に、少し地面が盛り上がった場所があり、そこに雰囲気のある小さな祠が祀られています。あるいはここが西大門の跡、という可能性はありそうです。
大門の尾根の突端にある祠。祠の周辺が盛り上がっており、木に囲まれた大きな岩の上に祠があります。神秘的な雰囲気がありました。
右側の畑の向こう側にある林が祠のあるところ。この場所は裏側から見ても盛り上がっています。
大門仏谷磨崖仏の方向へ下る旧道
大門から麓へ下る旧道は、少し意外な道筋を辿ります。先ほどの祠をすぎるとすぐ尾根筋を離れ、まっすぐ北へ下りていき、その後尾根を巻くようにして平坦な道が続いたのち、小さな子尾根があるところで、尾根筋へ戻ります。なおこの区間については、尾根筋には道の跡が全く見当たりませんでした。
この道がわざわざ尾根筋を離れ、北へ少し遠回りするのは、大門仏谷磨崖仏を見るためとも思えます。大門仏谷磨崖仏の造立年代については、奈良時代から鎌倉時代前期まで諸説ありますが、もしこの道が西大門造立と同時期に整備されたとすれば、大門仏谷磨崖仏も同時期(鎌倉時代前期)に造立された可能性が出てきます。浄瑠璃寺ではなく隋願寺など別の寺院が発願したなら、浄瑠璃寺流記事に磨崖仏の記載がなくても不思議はないです。
上写真に見えるように、ほぼ大門仏谷磨崖仏の方向を向いて道が下っていきます。残念ながら現在は、高く密生した樹木に遮られ、旧道からは大門仏谷磨崖仏を見ることができませんが、石油化学文明が発達する以前、とりわけ奈良など都市近郊の樹木が、燃料として活発に伐採されていたことを考えると、西大門が造立された当時は、この道からも磨崖仏がよく見えたことと思います。仏谷から浄瑠璃寺を目指す旅人は、麓から少し坂を登ったところで、左手の谷の向こう側に大きな石仏が姿を現すことに、きっと驚いたことでしょう。そして、石仏に背中を見守られながら、西大門へと登っていったに違いありません。
大門仏谷磨崖仏は下に落ちたのか?
大門仏谷磨崖仏の上方には崖崩れの痕がありますが、綜芸舎「南山城の石仏(上)」(1986)で、著者の山本寛二郎氏が、この崖崩れについて大胆な仮説を提起しています。山本寛二郎氏によれば、大門仏谷磨崖仏は元は崖崩れの場所にあったものが、幕末の大地震で下へずれ落ちたのだといいます。そしてそのとき向きが変わってしまい、大門仏谷磨崖仏が本来は恭仁京を向いていたことがわからなくなったというのです。つまり、この磨崖仏は恭仁京の守護仏として造立されたとするのが、山本寛二郎氏の仮説です。印相がわからないのは風化したからではなく、磨崖仏の製作途中で恭仁京建設が頓挫し、最初から彫られなかったとするのも面白い発想と思います。氏はこの説をとても気に入ってらしたようで、崖崩れの跡と大門仏谷磨崖仏を一枚に収めた写真が、本の表紙にもなっています。
山本寛二郎氏の仮説を、「南山城の石仏(上)」の表紙に図示しました。山本寛二郎氏によれば、崖崩れの場所にあった大岩が、磨崖仏を下にしてずり落ちたといいます。
ちなみに「南山城の石仏(上)」には続編がありません。これは著者が続編を書かれる前に他界されてしまったためで、とても残念です。なお、最近石田正道氏が書かれた「南山城 石仏の里を歩く」(2015)は、この「南山城の石仏(上)」の続編を意識して書かれたとのことで、南山城の石仏を幅広く網羅していてとても参考になります。
さて山本寛二郎氏が写真を撮られた1980年代から数十年経ち、大門仏谷磨崖仏の周りは背の高い木々と笹薮にすっかり覆われてしまいました。この間の植生の回復速度から見て、山本寛二郎氏が見た崖崩れの跡が、幕末の地震でできたものとは、にわかに信じがたいところです。
現在の大門仏谷磨崖仏。一見しただけでは崖崩れの跡がわからなくなっています。
そこで現在崖崩れの跡がどうなっているかを確かめるために、大門仏谷磨崖仏の上まで登ってみました。
磨崖仏の右側面。石垣が崩れたように、石がゴロゴロしていました。風化した花崗岩のようです。
磨崖仏の上。やはり石垣が崩れたように大きめの石が散らばっています。
磨崖仏の彫られた大岩の上には、さらに上から落ちてきたような岩が、いくつか積み重なっていました。
磨崖仏の上には、人工的な石積みのように見える場所もありました。ただこれは花崗岩が風化したものだろうと思います。
磨崖仏の上に登ると、花崗岩が風化してできたたくさんの石や岩が散らばり、上の崖からは大きな木が何本も倒れかかっていて、今も大雨のときなど小さな崖崩れが続いているようすでした。地滑りが起こりやすい地質の上に、大門仏谷磨崖仏はあるようです。
磨崖仏の上の崖。木の根元が崩れています。土質は花崗岩が風化したマサ土で、いかにも崩れやすそうです。
磨崖仏の上から磨崖仏の左側方向を見たところ。今も崖崩れが続いているように見えます。
崖の上。木が崖の下に倒れかかっています。
上から見た磨崖仏の大岩。正面から見て左側(この写真の右側)は丸みをおびており、元はこちら側が土中にあったとは思えませんでした。
大門仏谷磨崖仏の上まで登ってみて、このあたりの土質が地滑りしやすいものであることは確認できました。とはいえ山本寛二郎氏の仮説のように、磨崖仏の大岩がぐるりと方向を変えたとは思えませんでした。ただ、磨崖仏上の様子から見て、時期はわかりませんが、大岩が4、5メートル下にずり落ちた可能性はあると思います。元々は崖の位置に大岩の上部が接していたのではないでしょうか。またずり落ちた際、上部が右側へずれる形で、若干磨崖仏の向きが変わったということはあり得そうに思います。
「南山城の石仏(上)」の表紙にずり落ちた可能性のある方向を図示しました。
実は現在の大門仏谷磨崖仏は、西南西を向いています。もし元あった位置がもう少し高く、向きももう少し南を向いていれば、西大門のある尾根からも、この磨崖仏がよりよく見えたことでしょう。
西南西を向く大門仏谷磨崖仏。
造立年も名号も、どこから見たのかさえ、確かなことが誰にもわからない、謎多き大門仏谷磨崖仏です。
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