2017年7月28日(金)東大寺大湯屋公開
初めて一般公開された大湯屋を見てきました。
- (2017年7月30日(日) 午後3時17分35秒 更新)
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大湯屋の鉄湯船。
東大寺ガイドの人も中を見たことがなかった謎の建物
今回初めて一般公開された東大寺大湯屋。建物と内部の鉄湯船は重要文化財とのことです。ガイドの方によると、東大寺の復興を手がけた重源上人が、お風呂をとても大事にされていたそうで、東大寺がその精神を大切に伝えてきたことの一つの証が、この大湯屋だと言えそうです。
この特別公開は重源上人坐像の収められた俊乗堂と合わせた公開となっており、俊乗房重源上人のご命日である7月5日の俊乗忌に合わせ7月いっぱいを期間としています。ガイドの方は、このことには実は重源上人のご遺徳を伝える意味があるんですよとおっしゃっていました。
俊乗堂の重源上人坐像も拝観しましたが、いくつかある模刻よりもいくぶん体つきが細く華奢で、それが一層リアルに感じられました。9月から東京国立博物館で開催される運慶展にも出陳されるようです。
下記は京都府立大学の横内裕人先生によるツイッターでの解説です。
今回の大湯屋公開の目玉は、もちろん重源が鋳造させたあの大湯船が間近で見られる事ですが、さらにおまけがあります。なんと撮影自由なのです。造東大寺大勧進云々の銘文も、読みづらいですが、こんな感じ。 pic.twitter.com/OE7LlS7hUl— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月3日
さて東大寺大湯屋ですが、建築構造は以下の通り。梁行5間、桁行8間、妻入。前1間は土間、次の2間を浴室前室、次の3間が浴室で風呂屋形を造り鉄湯船を置く。最奥2間は土間で釜場(柱10本は鎌倉時代だそうで)。 pic.twitter.com/WDuawM34tV— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月3日
東大寺大湯屋の歴史について。まず天平宝字8年(764)「湯屋」作料の記載があり、752年の開眼供養の後に造営されたようです。長元8年(1035)の損色帳に築地と門を備えた「温室院」が見えます。1067~70年ごろ別当有慶が「大湯屋」を造るという記事があります。「大湯屋」の初見です— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月3日
その後、東大寺別当永観が、東大寺大衆の湯料を捻出するために積極的に湯田を集め始めます。東大寺文書には、このころから、大湯屋と東大寺大衆の繋がりを示す史料が増えていきます。湯田は、東大寺大衆が管理する共有財産としてとても大事に維持されたことがうかがえます。— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月3日
東大寺の大湯屋。京都の貴族大江親通は嘉承元年(1106)と保延6年(1140)に奈良を訪れ、旅行記『七大寺巡礼私記』を書きました。南向の大湯屋一宇があり、「差鍋(サスカナハ)一口」と十五石の容量の「足鼎二口」があったと記録しています。差鍋で湯を湧かし湯船に注いだのでしょうか。— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月4日
そして平氏に焼かれた大湯屋を再建したのが重源。「この度造営の初め大釜二口を大湯屋に置くなり。去る建久八年夏に鉄湯船を鋳、永代不朽の寺物となす。大湯屋の宝物なり。よって千日の温室を始め、諸人の快楽を成す。」『東大寺造立供養記』大釜二つと鉄湯船を寄進。千日温室がキーワード。— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月4日
続きです。「造寺の間、古えと今と勝劣十二あるなり。(中略)十は、鉄湯船。永代不朽の寺物たり。大湯屋の宝物なり。薪は昔の半分をもって、今の湯木となすなり。難易の一道、誰か察せざらんや」『東大寺造立供養記』この鉄湯船は、以前の物より、効率が良かったのですね。 pic.twitter.com/r1YpGPrsUz— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月4日
重源の大湯屋。自ら記した『南無阿弥陀仏作善集』には「一 奉修複(中略)大湯屋一宇〈在鐵湯船 大釜二口之内一口伊賀上人造立之〉」とあり、修理と書いています。また建久8年6月15日重源譲状には、「鐘楼谷別所 三間湯屋一宇あり〈鉄常湯船一口〉」と湯屋が三間であったことが知られます。— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月4日
大釜の一つを造立したという「伊賀上人」気になりますね~。ちなみに釜はいまは現存しません。釜が置かれた土間と煙出し部分の写真がこちら。今回の公開では、こちらも除くことが出来ます。(土間には下りられません) pic.twitter.com/zHBReZl3bQ— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月4日
いま僕がとにかく見つけたいのは、伊賀上人と隅田入道。このピースをとにかく埋めたいんだよね、重源論。— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月4日
新大仏寺に伊賀上人像と伝える僧形像がありますよね— 山本勉 (@eoruri_t) 2017年7月4日
重源造立の鉄湯船の情報です。口径232cm、高さ76cm、中心に流し口孔(16cm)あり。容量は約2,000リットル,重さは1,688.5㎏
上下二段を鋳継いでおり,側面に銘文があります。 pic.twitter.com/eaCgESlSjX— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
さて銘文は下記の通りです。
「敬白
造東(大寺大勧進)
大(和尚)南(无阿弥陀仏)
建(久八年丁巳潤)
豊(後権守)」(『年中行事記』元禄17年2月24日条で補う)
※豊後権守:豊後権守草部是助。大仏鋳造の日本人鋳物師。周防阿弥陀寺鉄塔銘文。 pic.twitter.com/klAeiJ26he— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
東大寺大湯屋。重源再建後、延応元年(1239)大湯屋「建立」の記録があります『東大寺別当次第』。その後大湯屋内部の風呂屋形の額裏面墨書に「応永十五年(1408)二月十四日浴室を加え修理し畢ぬ。同十六年六月五日この宝号を書く 沙門惣深」との銘から大規模修理がされたと考えられています— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
重源の建久再建から延応の建立まで期間が短いですが、湯屋ですから劣化も早いのでしょうね。ちなみに、応永16年の宝号を書いた日は6月5日。つまり重源上人の忌日です。そして重源500年御忌の宝永元年には公慶が湯屋を修理、弟子の公盛が名号を記しています。— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
「弥陀名号 公慶上人真跡 宝永元〈甲/申〉六月五日、俊乗上人五百年忌につき、先師上人(公慶)発願し大湯屋を修復せらる。三月十五日に成就す。滅後により衆評によりこの名号を屋上に掛けしむるものなり。宝永三〈丙/戌〉七月十二日 遺弟大進公盛謹記」大湯屋は、重源の記憶とともにありました— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
今、大部分が朽ちてしまった大湯船の銘ですが、宝永の修理で、銘文が記録されていました。江戸時代の東大寺の日誌に書き留められていた!素晴らしい! pic.twitter.com/hivb1f1fmY— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
公慶上人による大湯屋修理について記す東大寺の日誌です。公慶上人は、大湯屋を修理した後、3/27に俊乗忌を開催し重源の記憶を呼び起こします。そして4/5まで大湯屋を「諸人」に開放し、結縁させたのです。東大寺の僧侶(学侶・堂衆)、奈良奉行、一般人の順番で湯を使いました。 pic.twitter.com/QkmQ7PjDtu— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
以前ツイートしたように、現在の東大寺大湯屋の建物は、延応元年(1239)建立、応永15年(1408)修理と一般的には考えられています。ところが、今回調べる中で、元弘元年(1331)に炎上していたことがわかりました。元亨2年3月日東大寺衆徒申状案(鎌倉遺文31712号)です。— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
この文書は、東大寺が、諸堂の造営のために期間限定で認められていた摂津国三箇津の入港税徴収の延長を願い出たものです。その中に、炎上してしまった大湯屋の営作が必要だと述べた部分があります。
元亨2年3月日東大寺衆徒申状案(鎌倉遺文31712号)— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
この部分です。「当寺大湯屋者、重源大和尚之建立、百四十余廻之旧砌也、毎月八ケ度之沐浴、更無退転、連日衆徒之会合、専在此所者也、而去年九月廿六日不測炎上、是一寺之衰微、衆侶之周章也、然間、片時不可閣之、篋可企営作之地也、」元亨2年3月日東大寺衆徒申状案(鎌倉遺文31712号)より。— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
(訳)「当寺の大湯屋は重源大和尚が建立し140余年を経た旧跡です。毎月8回の沐浴が続けられ、連日衆徒の集会が行われるのが、この場所なのです。ところが去年(元弘元年)9月26日に思いがけずも炎上しました。一寺は衰微し、僧侶らは狼狽しております。ですので一刻も早い造営が必要です。」— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
この文書からは、元弘元年の炎上の事実だけでなく、大湯屋が、鎌倉時代には毎月8回の沐浴と大衆集会(だいしゅしゅうえ)の会場として利用され、東大寺僧侶には欠かせない公共施設になっていたことが知られます。大変興味深い史料です。
元亨2年3月日東大寺衆徒申状案(鎌倉遺文31712号)— Yokouchi Hiroto (@yokohirama) 2017年7月5日
専門家の詳しい解説をさらりと読めてしまうとは、本当にありがたいです。読み応えたっぷりです。
屋根の上に突き出した小屋根の正体は、窯場の煙出しでした。
本来は井桁の上ではなく土間に掘られた穴に収まっているのだとか。よく見ると銘文があり、「敬白」「造東」「大 南」「建」「豊」などの文字が見えます。これらは「年中行事記」の記述と一致し、重源上人が豊後権守に命じて鉄湯船を鋳造したことが書かれているそうです。
鉄湯船の後ろの部屋に大釜があり、そこでお湯を沸かして鉄湯船に注いでいたそうです。建物の中の屋形に湯気を立ち込め、それで垢を落とし、鉄湯船のお湯を身体にかけて流す、という半分サウナみたいなお風呂だったとのこと。
浴室裏の広い釜場の天井には、煙出しの小屋根がありました。
Map.
今まで公開されたことのない建物です。
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