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2015年12月6日(日)シン・県境の道の歩き方

  • 草刈りが完了し、2年前とは状況が一変しました。今回は奈良阪から浄瑠璃寺までをたどります。

  • (2019年9月9日(月) 午後6時54分54秒 更新)
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笹薮で通行困難だった石橋。

笹薮に覆われていた石橋付近。こんなにきれいになりました。

牛塚で左折

奈良坂から緑ヶ丘浄水場のさらに奥、梅見台から中ノ川へ抜ける道路の上に架かった橋を渡ると、舗装が途切れ土の道になります。この道はすぐ先で崖崩れがあるため、車両が通行止めとなっていますが、歩行は可能です。尾根筋を上りきると、左手に牛塚があります。牛塚を過ぎてすぐのところに、左側の林の中へ入って行く細い道があります。ここで左折し、この道を進みます。

護摩石

道をしばらく進むと、急な下り坂になります。下り坂の手前左側に赤い杭が何本も打たれている場所がありますが、そこから子尾根の尾根筋をたどると梅谷三角点にたどりつきます。梅谷三角点付近に護摩石があります。

石橋と篠竹のトンネル

急な下り坂を下りきると、石橋があります。この石橋はここ数年で次々に橋板が崩れ落ちています。橋板を支える石垣は、牛塚側が特に崩れ落ちています。牛塚側の石垣に橋板を支える機能はほとんど残っていないと思われます。最後に残った橋板もいつ崩れるかわかりませんので、石橋を渡らず、小川縁に降りて流れをまたいだ方が無難です。

左・西小、真ん中・東鳴川を経て浄瑠璃寺、右・中ノ川

篠竹のトンネルを抜け、少し坂を上って、また下りにさしかかるあたりに、フォークのような形をした四つ辻があります。

フォークのような形をした分かれ道。

フォークのような形をした分かれ道。真ん中の道をまっすぐ進みます。山の形が人や荷車の往来で大きくえぐられています。この道が奈良へ通じる主要な道だったなごりです。

宝塔残欠が散らばる小川

ここにも石橋があります。この小川は、中川寺跡と見られる谷から流れ出しています。小川に散らばる苔むした宝塔の残欠も、あるいは上流の中川寺跡から流れてきたものかもしれません。

ちなみに、この橋を渡って、20メートルほど歩くと右手に、放棄された田んぼがあります。そこで右折し、あぜ道のような細い道を進むと、中川寺跡(東岸)にたどりつきます。

どんなに晴れた日も水がいつも染み出している場所

このあたりは水が豊富で、常にどこかから水が染み出しています。草刈り前は足場がなく、歩くことが困難でしたが、草刈り後は草を刈った場所を歩けるようになりましたので、足場を選べば歩ける状態です。

笹の道

ぬかるみやすい場所に、刈り取った笹を敷きました。かなり歩きやすくなったと思います。

道の出口

林の中の里道を進むとやがて車道にぶつかります。この車道を右に行くと県道に出ることができます。県道に出たところに、奈良交通「中ノ川東(旧・浄瑠璃寺南口)」停留所があります。車道に出たところから県道までは、大阪の不動産業者の私道ですが、土地取得前からある勝手道ということで、特に通行は制限されていません。

車道から県境の道を振り返ったところ。

車道から県境の道を振り返ったところ。車道に出る手前のあたりは笹薮や倒木が多く、長らく通りにくい状態にありました。そのため2年前の記事では、本来の道ではない獣道をたどり、薮をくぐり抜けるよう書きましたが、今は本来の道を通れる状態になっています。

養豚場の敷地の間を抜ける里道

車道を左に進むと前方に養豚場が見えてきます。養豚場の手前で右に折れる道は東鳴川へ向かう道で、養豚場の敷地の間を抜ける道が、浄瑠璃寺に通じる笠置街道中川越古道です。

このあたりの府県境は入り組んでおり、敷地境界もわかりにくくなっています。下図を参考にしてください。

養豚場の敷地の間を抜ける里道

養豚場の間を抜ける里道について、詳しく知りたい方はこちらの資料(PDF/6.9MB)をご覧ください。

養豚場の間の里道を通り抜けるポイント

万が一放し飼いの犬があたりをうろついていても、エサに困っていない犬ですから、恐れる必要はまったくないです。ただ、犬が興奮する可能性があるので、絶対に走ったり、追い払おうとしないでください。とにかく犬を無視することです。一定の速度で歩き、赤門坂まで抜けてしまいましょう。

赤田川を渡る橋までは、道なりに進みます。道をはずれると農場の敷地に入ってしまいますから、なるべく道の真ん中を歩きましょう。橋を渡って少し左側に進むと、草刈りされていれば、奥の山林へ向かう踏みあとがみつかりますので、それをたどります。夏場など、本来の道が薮に覆われている場合は、薮が薄い場所を探して左奥(西奥)の林をめざしてください。

赤門坂

養豚場を抜けると、堀辰雄が「浄瑠璃寺の春」で「そのかなり長い急な坂」と書いた赤門坂が待ち受けています。堀辰雄が歩いたころは、すでに曲がりくねった道だったようですが、明治の頃は水呑み地蔵のあるあたりまで、谷筋をまっすぐ上る道だったようです。後に土砂崩れがあり(?)、元の道を通れなくなったため、道が付け替えられたそうです。

明治時代の公図

明治に作成された公図。まっすぐ上る坂道が、なんらかの理由でえんぴつ書きの曲がりくねった道につけかえられました。新しい道の土地を持っていた家は、村に道として土地を差し出す替わりに別の山林をもらったのだと、このあたりの土地を持っておられる方に聞きました。

赤門坂を上りきれば、堀辰雄が書いたように、まさにあと「二丁ほど」で浄瑠璃寺です。この坂が赤門坂と呼ばれるのは、かつての道をのぼりきったあたり、水呑み地蔵がある付近に、浄瑠璃寺の南大門、通称「赤門」があったことに由来しています。

赤門は康永2年(1343)に建てられ、奈良大門とも呼ばれました。後に焼失しましたが、水露がついていたため扁額だけは燃えなかったと、浄瑠璃寺縁起は伝えています。水気の多い場所に建っていたことを思わせる記述です。水呑み地蔵は、赤門が焼けた際、いっしょに炎に巻かれてしまい、そのせいではげしく損傷したのでしょう。

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