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2015年1月1日(木)森八幡宮で初詣

  • のぼりに導かれ、森八幡宮に初詣に行ってきました。

  • (2015年5月7日(木) 午前11時53分41秒 更新)
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森八幡宮

山の中腹の露出した岩のかたまりの下に築かれた森八幡宮。

古い由緒を持つ森八幡宮

森八幡宮は、聖武天皇が天平12年(740)、恭仁京に遷都した際、翌天平13年(741)に、宇佐八幡宮をこの地に勧請したことに始まると、社伝にあるそうです。祭神は、気長足姫命(おきながたらしみめのみこと)(=神功皇后)と、誉田別命(ほむだわけのみこと)(=応神天皇=八幡神)とされています。

古い由緒を持つ森八幡宮

お参りをする人。

本殿左の恵比寿社は、明治期の神社合祀で境内に移されたものです。毎年1月5日に、五日恵比寿があり、商売繁昌・家運隆昌を祈願した福笹が配られます(有料)。

線刻毘沙門天像と不動明王像

本殿右の線刻毘沙門天像と不動明王像は、線刻の脇に刻まれた銘から、八幡宮摂社の本地仏として鎌倉時代後期に造立されたことがわかっています。毘沙門天像は武内宿禰の本地仏として、不動明王像は八幡神の牛飼いとも言われる松童の本地仏として造立されたようです。いずれも、八幡宮の摂社として祀られることが多い神様です。

線刻毘沙門天像

線刻毘沙門天像。右上に「武内之本地」とあります。

不動明王像。

線刻不動明王像。右上に「松童之本地 于時正中三年丙寅二二月十八日」、左に「勧進十方壇那奉造立之願主仏子恰阿」とあり、1326年に造立されたことがわかります。

線刻磨崖仏が造立された7年後の元弘元年(1331)に起こった元弘の乱の際には、後醍醐天皇の命を受けた楠木正成が笠置山へ赴く途中、この森八幡宮に立ち寄って戦勝を祈願したと伝えられています。線刻磨崖仏が造立された時期とほぼ重なり、当時の興隆を思わせます。森八幡宮へ立ち寄ったということは、楠木正成も笠置街道を通って笠置山へ向かったのでしょうか。

残念なことに、森八幡宮の線刻磨崖仏は、昭和に入ってから拓本を採られるなどして、いっそう風化が進みました。現在は雨風から保護する為に屋根が据え付けられています。

森八幡宮の線刻磨崖仏に限らず、当尾地域の線刻磨崖仏は一時期盛んに拓本が採られ、そのせいで急速に損傷したといいます。採った拓本を襖紙や掛け軸にすると高い値で売れたため、入れ替わり立ち替わり大阪などから業者がやってきたそうです。

覆い屋根で保護された森八幡宮の線刻磨崖仏。

覆い屋根で保護された森八幡宮の線刻磨崖仏。

古い信仰を今に伝えるお供え物

お正月の森八幡宮では、本殿の左側、本殿の後ろに小高くそびえる岩山の下に、新年のお供え物が捧げられます。社務所に詰めておられた地元の方に聞くと、「ナントカいう神様」をお祀りしているそうで、よくわからないけれどもともかく岩山の前にお供えをすることになっているそうです。

これは、いくつも積み重なった大岩を、神の依り代、磐座と見た、八幡神を勧請する以前の、古い信仰を今に伝えるならわしなのではないかと思います。このあたりには古い古墳もありますから、奈良時代以前より人々が暮らしていたことは確かでしょう。山深い谷の、清らかな流れのすぐそばに、いくつもの大岩が突き出ているのを見た古代の人々が、そこに神を感じたとしてもおかしくありません。

土地神、八幡神、本地仏と、時代が変わっても、この磐座が連綿と人々の信仰を引きつけて来た歴史が、小さな社に刻み込まれているようです。

古い信仰を示すお供え物

屹立する岩が何かの碑のようにも見えますが、何かが彫られているようすはありませんでした。このもう一段下にある石碑は、森八幡宮の前を流れる川に石橋を架けたときの記念碑だそうで、通行のじゃまになったため境内に移したのだとか。

プレハブ住宅方式で再建された本殿

加茂町史 第二巻 391ページに森八幡宮の社殿について興味深い記述があります。

この本殿は享保四年(一七一九)の山崩れで大破したため、四年後に再建されることになった。工事を担当したのは南下手村大工新四郎と勝風村大工儀兵衛である。二人は大坂の宮屋甚兵衛に材木の切組を注文し、完成した部材を梱包して船積みし、淀を経由して加茂郷船屋で陸揚げし、そこから八ヶ村の氏子によって陸路を森村まで運んだ。現場の組立には宮屋の手代頭忠兵衛はじめ五人が大坂から参加し、早くも六日後には上棟式がおこなわれている。さらに一三日後には本工事が一段落したようで、宮屋へ代銀と割増銀が支払われ、五人の手代には祝儀がはずまれた。その後は檜皮を葺き、錺金具を取り付け、二ヶ月後には上遷宮がとりおこなわれた。これが現存する森八幡宮本殿である。

この工事で切組を担当した宮屋は、大坂の北御堂前の安土町(大阪市中央区)で宮道具屋を営んでいたが、寛文頃から稼業を発展させて神社建築の注文を受けるようになった。当時の宮屋は大坂で材木を切組加工し、現場に運んで組み立てるという一種のプレハブ工法で神社をつくることを売りものにして、手広く商売を営んでいた。こうした都市の動向を敏感にとらえた加茂地域の大工は、宮屋の切組工法によって工事の合理化と工費の節減、加えて最新流行ので陣の導入を図ったのである。

…(略)…

しかしこうした新しい工法もかも地域の他の社寺造営に採用された形跡がない。また、宮屋など大坂で流行した切組工法は大坂周辺で地元大工とのトラブルが続出し、大工組から締め出されたようで、この享保期を最後にその姿を消してしまうのである。

近世大工は農耕に従事しながら大工業を営み、公共の大工仕事を請け負うかわりに年貢を減免されていたそうです。また地域ごとに大工組が組織され、その地域の大工仕事を独占していました。そのため、現在のプレハブに似た切組工法は地域の大工仕事を奪うものとして、大工組から拒絶され、すぐに廃れたようです。

プレハブ住宅方式で再建された本殿

プレハブ住宅方式で再建された本殿。

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