2014年9月10日(水)実範上人御廟塔にお参り
9月10日は実範上人のご命日ということなので、御廟塔にお参りしてきました。
- (2014年9月11日(木) 午後5時57分24秒 更新)
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9月10日は実範上人のご命日
9月10日は実範上人のご命日ということなので、御廟塔にお参りしてきました。
実範上人(しっぱんしょうにん/〜1144年)は、平安時代の貴族、藤原顕実の第四子として生まれ、興福寺で法相を、醍醐寺で真言を、比叡山横川で天台を学び、広く諸宗に出入りして研鑽に励みました。はじめ忍辱山円成寺にいましたが、仏に供える花を探して中の川に入ったとき、ただならぬ場所だと感じたため、この地に、法相、真言、天台の道場として中川寺を開きました。また戒律の復興に勤め、唐招提寺を再興しました。中川寺は律を重んじる南都仏教興隆の先駆となった寺院です。
実範上人は晩年浄土宗棚倉山光明寺に移り、その地に没しました。中川寺に実範の御廟が営まれたことを記す文献はみつかっていません。実範上人御廟塔と伝わる五輪塔は、鎌倉時代末期のものと見られ、実範上人の没年よりかなり後になって造立されたものでしょう。大正13年9月、この塔は奈良に運び出され、危うく売りとばされそうになりましたが、その場に立ち会った古老によれば基壇中に納骨があったといいます。塔はその後戻されたものの、現在の位置は元の位置と異なるとも言われます。
中川寺は、後に筒井氏と関係の深い寺となり、応仁の乱後の混乱の中、寺内で争いが起こって、文明13年(1481年)一山ことごとく焼亡してしまいます。その後次第に衰え、江戸時代には本堂と二層の多宝塔、地蔵石仏を残すのみとなっていました。中ノ川辻堂地蔵石仏は中川寺が明治に廃寺となった際、寺趾から中川辻に移されたものです。頭部の破損は廃寺の際破壊されたものかもしれません。
三社神社の太神宮と書かれている灯籠はお陰参りの記念に奉納されたものでしょう。正面に「太神宮」、側面に「天保二年卯年二月吉日おかげ」、基壇部分に「□□□(読み取れず)若連中」とあります。前年天保元年に発生したお陰参りに参加した若者組が帰村後奉納したものでしょうか。常夜灯には鹿のレリーフがあり、春日神信仰を示唆しています。お社脇の宝永八年(1711年)の石灯籠には「奉寄進十所権現」の刻銘があります。十所権現は、伊勢両宮・八幡四所と春日四所の大神を奉祀したものと考えられます。三社神社では、 2月18日に、現在社務所となっている神宮寺最大の行事があり、三社神社の宮座のうち五人衆に選ばれたものが順に当宿を受け持ち、餅を供え、社務所の中で念仏を唱えるそうです。この念仏が他へ聴こえては不吉であるということで、ネコヤナギを持ち寄って寺の縁や周囲を叩き、お経が外へ漏れないよう、音を立てるという奇習があるといいます。
帰りは中ノ川から加茂西小へ尾根の上を下る道を自転車で走りました。大回りする車道を通るよりずっと近いことがわかります。
※GPS の軌跡が最初左へ大きく飛んでいますが、これはデータがおかしいです。実際には地図上にある道をたどってほぼまっすぐ北上しています。
そろそろ行けるかなと思ったんですが、大きなジョロウグモがいっぱい蜘蛛の巣を張っていて、閉口しました。急に止まるのは蜘蛛の巣に突っ込んだときです。中でも顔に大きなジョロウグモが張り付いたときには、激しく頭を振っています(笑)。
蜘蛛の巣を払おうと枝を持っていたので片手運転となってしまい、不安定でスピードも出せませんでした。。。走るより遅いです。
教訓:虫が苦手ならもっと寒くなってから山の中を走りましょう。
実範上人御廟塔
中ノ川辻堂地蔵石仏
三社神社
三社神社。脇の灯籠に「十所権現」と彫られています。
Map.
GPS の軌跡が三社神社から先で左へ大きく飛んでいますが、これはデータがおかしいです。実際には地図上にある道をたどってほぼまっすぐ北上しています。
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