2014年2月1日(土)牛塚・伊勢参りの記念碑・石龕仏
尾根の上に牛塚石塔、伊勢参りの記念碑、少し下りた斜面に石龕仏があります。
- (2016年3月3日(木) 午後2時20分9秒 更新)
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見晴らしのよい尾根の上に牛塚があります
牛塚石塔は南都復興のために働いた荷役の牛を供養するために建てられたそうです。傍らには伊勢参りに記念碑も建っています。尾根の斜面には首のない石龕仏があります。時代を異にする遺物が同じ場所にあるのは、見晴らしの良さ故でしょうか。
般若寺のご住職のブログに、くわしい記事「般若寺 春の花だより 3・23: 般若寺 季節の花だより」がありました。以下引用します。
牛塚は伝承によれば、鎌倉時代、東大寺興福寺をはじめとした奈良の寺院復興に際し、資材を運搬するのに使役され斃れて行った牛を供養するために、塔を建て仏をまつったと言われています。般若寺の大石塔の石もこの道を運ばれました。笠置山系当尾の里が石材供給地であったからです。中の川からこの牛塚までは急な上り坂があり、上りきった高台に塔を建てたのでしょう。
あの般若寺の大石塔の石が、当尾からこの道を運ばれていったというのは驚きです。あんなに大きくて重そうなものも運んでいたとは…。
塔は元は十三重石塔であったらしいのですが、今は10重目の笠石までしか残りません。総高333センチあります。軸石の四方仏は金剛界の梵字を刻みます。(東―阿閦如来・ウーン字、南―宝生如来・タラーク字、西―阿弥陀如来・キリーク字、北―不空成就如来・アーク字)この字体は鎌倉時代特有の鋭い「薬研彫り」を見せ、大変美しい梵字です。…近年、修復を受けたのか、セメントの目地が見えます。しかし残念ながら四方仏の方位が90度ずれていました。
四方の梵字にはそんな意味があるんですね...(^^;。
石塔の真下に南面して一体の石仏があります。高さ巾ともに150センチの板石造りの石龕の中に、高75センチ巾80センチの坐像の仏像です。前に出した両手は早くに失われ、頭部も30年前にはあったのが今は持ち去られなくなっています。ここは奈良県側か京都府側かわかりませんが、保存管理が行き届いていません。径65センチの円形光背もあり古風な作りの石仏です。かつては重い石を運んだ人も牛もこの地でしばしの休息を取っていたのかもしれません。ここから奈良へはなだらかな下り坂になる尾根道です。
私が小学校の頃にはもう頭部はなかったです。当時はここを「気味の悪い場所」と思っていました(^^;。
石塔のすぐ脇に高さ104センチ幅66センチの石碑があり表面には真ん中に「天照皇大神宮奉三十三度供養」に右左に「元和二年(1616)六月00」と刻まれ、上部に丸が二つあります。これは日月を表わし内宮外宮の伊勢大明神を意味します。この碑は伊勢参宮を33度果たした記念にこの牛塚へ供養奉納されたものです。約400年前のもので伊勢道の歴史を物語る貴重な信仰遺産です。
最初にこの石碑が伊勢参りの記念碑だと知ったときはびっくりしました。石碑の前の道が伊勢までつづいているとは想像もしていなかったからです。逆に、この道が奈良から当尾、笠置、さらに伊勢までつづく道だと知れば、地域の遺物や文化についてよりよく理解できると思います。
上引用した、般若寺ご住職のブログ記事「般若寺 春の花だより 3・23: 般若寺 季節の花だより」には、きれいな写真も多数あるのでぜひご覧ください。
首の無い石龕物。この仏様に首がないのはなぜなんでしょう? 30年前までは頭部もあったそうです。石が乗っているのも謎です。誰かがかわいそうに思って首の替わりに置いたものかもしれません。ずっと前から置かれています。
膝の上に奈良土産の大仏様のミニチュアが置かれています。首の欠けた仏像のミニチュアも。。。寂しくないように、ということでしょうか。。。(^^;
伊勢参りの記念碑。「皇太神宮」の文字が読み取れます。「天照皇太神宮奉三十三度供養 敬白 元和二年中川村 丙辰八月六日」と書かれているそうです。
牛塚石塔。十三重塔のはずが十層しかありません。この石塔は明治になってから一度売られてしまい、どういうわけかまた戻ってきたそうです。上部の笠石が何層か欠けているのはそのとき失われたのでしょう。
この場所からは加茂盆地が一望できます。
石龕仏の頭部はどこに!?
後日、木津川市社会教育課文化財保護室で、牛塚近くの石龕仏の頭部がなくなっていることについて伺ってきました。この石仏は木津川市の梅谷地区の方が管理しているそうで、頭部は盗難を避けるため梅谷地区で保管しているのではないかとのことです。あとで地区の方に確認してメールしていただけることになりました。
(※後日再訪して頭部の行方についてうかがったところ、やはりどこへ行ったかわからないとのことでした。)
また、そのあと奈良県立図書館で、奈良市教育委員会「奈良市石造遺物調査報告書 調書編」(1989年3月31日発行)に、中ノ川にある室町時代の丸彫一尊像として、この石龕仏がリストされているのをみつけました。その備考欄に「頭部欠失 石室に安置 尊名は阿弥陀か」とあることから、1989年には既に頭部が失われていたとわかりました。少なくとも奈良市側では頭部の行方がわからなかったようです。
どこが管理しているのやら、いまひとつわからないというのは、県境ならではという気がしますね。。。
ところで文化財保護室でいただいてきた下写真を見ると、素人目にも、胴体部の流麗なひだの表現と、頭部の素朴な顔立ちが、どうにもしっくりこない印象を受けます。こちらの記事「奈良の石仏を巡る―⑦首なし石仏 : 「奈良の景色」 写真・雑記」には、「江戸時代にはすでに新しい首にすげ替えられていたことがわかっている」と書かれていました。この写真を見るとその可能性が高そうに思えます。
木津川市社会教育課文化財保護室で印刷していただいた、昭和40年ごろに撮影されたという写真。文化財保護室には、頭部を膝の上に載せている写真なども多数ありました。この頭部は座りが悪かったらしく、落ちて壊れないよう、ふだんは頭が膝の上に置かれていたそうです。そ、それはそれで、不気味なような。。。
首がずれています。
首があった頃の石龕仏。
首が落ちやすかったので膝の上に置かれていることが多かったのだとか。
下の画像は旧木津町の冊子に載った記事だそうです。切れている部分を推測して元の文章を復元するとこんなかんじです。
国道二十四号線の奈良坂を上りきった所を左に折れると、山へ登る道がつづいています。この山道を東へ五キロメートル大字梅谷小字上ノ平に九層塔と首なし地蔵が建てられています。
最初は広く舗装された道が徐々にせまくなり、舗装も緑ヶ丘水源地までで、そこからは道幅も急に狭くなり、小石のあらい土の道が山の尾根づたいにつづいており、右に奈良市街、飯盛山、左に加茂町、木津町の民家を眺めながら約二十分ほど歩くと道が、二つにわかれており、その左手の小さな山の頂点に九層塔と首なし地蔵があります。
この九層塔は、その昔、奈良東大寺の大仏建立の際、工事の安全を願って丑寅(北東)の方向、つまり鬼門に建てた厄除けの塔で、その下には弘法大師の作と言い伝えられている首なし地蔵が安置されています。
しかし、今は首がつながっており、首切り地蔵といったほうがピッタリくる感じであります。
いずれも、そのいわれが、はっきりしておりませんが、一度はグループ同志で行ってみるのもいい所だと思います。
当時は笠石がひとつ戻って来る前で、九層塔とされていたようですが、もとは十三重塔だと思います。牛塚の名も登場せず、奈良側で記録されているいわれとやや異なるのがおもしろいですね。
Map.
写真の位置がわかる Every Trail 版はこちら。
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