2014年12月30日(火)発掘!? 中川寺!(完敗)
試しに少し掘ってみましたが、木の根に阻まれ何の成果もありませんでした…。
- (2014年12月31日(水) 午後5時35分30秒 更新)
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木の根がすごくてちっとも掘れません。
さがしてみたエリア
古道探検隊の臨時隊員を一人確保したので、スコップをかついで中川寺跡へ行ってきました。少し掘ってみたもののまるで成果がありませんでした。弥勒の道プロジェクトでは、このあたりで何かをさがしあてた猛者からの情報を、今か今かとお待ちしています!(笑)
※人の土地ですから、どこまで許されるのかよくわかりませんが、イノシシがあちこち掘り返していますので、ところどころ掘って埋め戻すくらいなら問題ないだろうと判断しました。
今回、地表に何か落ちていないかさがしたり、地面を掘ってみたりした場所は、上図、AからGの7カ所です。
A地点は東西の直線上に土が盛り上がっている場所です。もしかすると土塀のなごりかと思いましたが、中に石がゴロゴロしていたので、おそらく北端の溝を掘った土を積み上げたものだと思います。やはりこのあたりは後世、畑にされたのでしょう。この平坦地の東端にも溝があり、山から染み出して来た水が、窪みに貯まるようになっていました。
するする刺さる杭、木の根に阻まれるスコップ
B地点は東側エリアの一番高い区画で、周囲に溝がなく、畑などにされた形跡がない場所です。何カ所か掘ってみたのですが、木の根が網の目のように張り巡らされていて、スコップではまったく歯が立ちませんでした。がんばっても少ししか掘れません。
スコップを勢いよく突き立てて木の根を切らないと少しも掘れない、この木の根だらけの地面を、イノシシがあちこち掘り返していることに驚かされます。鼻面で軽く掘り返しているのかと思いきや、ものすごい力で無理矢理掘っているんですね。
スコップは木の根に阻まれる一方、25cmの杭は最後まで抵抗なく刺さってしまいます(左側の杭)。何カ所か突き刺してみましたが、何かが埋まっている反応はありませんでした。何かが埋まっているとすれば、もっと深い所にあるのかもしれません。木の根のせいで少し掘るのにも一苦労でしたから、今日みたいなやり方で地中から何かを掘り当てるのは至難の業と思いました。少なくとももっと長い杭が必要でしょう…。
大きな石がゴロゴロしているのはなぜ?
C地点には大きな石がゴロゴロしています。この区画も畑にされていたようには思われません。この下、谷底に近い、東のスロープの下から一段目のエリアは、周囲に溝が掘られていて、A地点近辺の平らな区画同様、畑にされていた形跡があります。
それにしても、ここにはなぜ大きな石がたくさん散らばっているんでしょう。土止めの石としてかつては何かをを取り囲んでいた石が、後から生えた木が倒れたとき、根っこといっしょに散らばったのか、単に表層が雨で流れて土中の石が姿を現したのか、地表を観察しているだけでは原因がよくわかりませんでした。
C地点のあたりは平らな地面に大きな石がたくさんちらばっています。手前右下に瓦が落ちています。
C地点には瓦がいくつか落ちていますが、比較的新しい時代のものに見えます。大量に落ちているわけではなく、よくさがすとみつかる程度です。
これは素丸瓦でしょうか?
落ちていた瓦の裏側。
みつかるのは桟瓦ばかり
桟瓦は江戸時代に発明された瓦で、断面が波形になっているのが特徴です。それまでの瓦は、浅いUの字型の断面をした平瓦を縦方向に一部が重なるように並べ、横方向の継ぎ目に円筒を半分に切ったような丸瓦をかぶせて葺かれていました。桟瓦では断面が波形になっているので、縦方向にも横方向にも継ぎ目なく重ねることができ、その分瓦の重量を減らすことができます。そのため江戸時代以降は桟瓦が広く普及しました。
つまり瓦の断面が波形だと、その瓦が江戸時代以降のものだとわかります。東のスロープの周辺にも、瓦がいくつか落ちているのですが、どれも断面が波形で桟瓦のようでした。
ところで、東大寺雑集録に中川寺の建物として「瓦坊」の名があるそうです(東里村史365p)。この建物が瓦窯だったのか、瓦の倉庫だったのか全くわかっていませんが、瓦に関係する施設だった可能性は高そうです。ですから、中川寺の、少なくともいくつかの堂塔には、瓦が使われていたのではないかと思います。古い瓦がみつかれば、ここが中川寺跡である証拠となり得るので、そんな瓦がみつかることを期待していたのですが、そうはうまくいきませんでした。
ちなみに戦国時代以前の瓦には布目がついていることが多いそうです。瓦を作る際、木の型から瓦となる粘土をはがしやすいよう、木の型に布をかぶせてから粘土を巻き付けたため、粘土に布目がついたのだとか。布目瓦をみつけられたら最高だったのですが…(^^;。
地面をよくさがすと落ちている桟瓦の破片。
瓦の裏側。
断面が波形なので、おそらく桟瓦の破片です。
東のスロープ。上の段から、真ん中の段を見下ろしたところ。真ん中の段のスロープ脇に桟瓦の破片が落ちていました。
本日の探検、唯一の収穫は!?
D地点のあたりで、鹿の角を見つけました。中川寺跡では鹿の糞をあちこちで見かけましたし、このあたりには野生の鹿がたくさんいるようです。
山の中に落ちているのを初めて見ました。
D地点とE地点は植林された針葉樹が多く、地表を細かい木の根が網の目のように覆っていて、ほとんど掘り返すことができませんでした。イノシシが掘り返した跡もありません。
木の根が網の目上に幾重にも重なり、まるで歯が立ちませんでした。
D地点とE地点の間の通路。子尾根の上に三段ある平坦地の間には通路のような窪地があります。
臨時隊員、中川寺跡であることに賛同する
残念ながら三時間程度の探検ではこれといって何もみつけられませんでしたが、今日協力してくれた臨時隊員は、現地の四角く整地された平坦地の数々を目にして、それらが中川寺の跡だろうことに賛同してくれました。
そんな臨時隊員との帰り道、当尾の西小で、スコップを担いで歩いている姿をいぶかしく思ったおじいさんに、スコップを持っている理由を聞かれました。お寺の跡を掘ってみたんですと答えると、「そんなんやったら、赤田川の橋の下をさがした方がええ」とのお返事。
どうやら、赤田川の流れが緩やかになる西小のあたりでは、上流から流されて来た瓦や磁器が川辺に引っかかっていることがあるそうです。赤田川の上流には、支流の上流に中川寺が、本流の上流に善根寺がありましたから、大水などでそこから遺物が流されて来ることは多いにありそうです。
山中で食べるおにぎりがおいしかったし、発掘なるものが予想以上にたいへんだということがわかったし、山の地面が木の根に固く覆われていることを知ったし、鹿の角を見つけたし、目的を達成できなかったものの本日の探検、けっこう楽しかったです。
G地点にころがっている五輪塔の水輪。F地点に埋まっていた宝珠か空輪風輪の下にいたカエルさんはいなくなっていました。どこかで生きのびていると信じています…。
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