ここには昭和初年まで狹川氏のお屋敷があったそうです。
下狭川城趾にある「狭川家累趾」の石碑。側面と裏面の碑文によると、昭和11(1936)年に、狭川明俊師が狭川家元祖四百年忌に建立したものだそうです。
狹川氏は至徳元(1384)年の「長川流鏑馬日記」以来、春日若宮の長川方願主や山内衆としてしばしば史料に登場する在地土豪でした(「奈良市史 通史二」1994、516-517頁)。下狭川城は、その狹川氏の本拠となる城館として築かれたと考えられています。
長い辺が80mほどの南北に長い長方形の曲輪に空堀がめぐらされています。道の一部は曲輪の西側にある土塁の上を通っています。
北西の空堀と土塁。
狭川家の屋敷跡。現第223世東大寺別当狹川普文猊下の祖父にあたる狭川明俊師は、ここにあったお屋敷から東大寺まで通っておられたそうです。明俊師は、東大寺の第201世別当を勤められました。
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