吉水寺跡から案内板が整備されていました。
最近設置された案内板。
現在東狭川町公民館がある場所には、かつて吉水寺がありました。吉水寺は狭川氏の一族である福岡氏の菩提寺で、現地に残る十三重石塔は、福岡越前守藤原助宣と令室の供養塔と伝わります。この十三重石塔に、「吉水寺跡」という看板と「上狭川城趾」への案内板が設置されていました。
道標を頼りにきれいに整備された山道を歩いていくと、上狭川城(福智城)趾にたどり着きました。「奈良市史・通史二」517ページによると、上狭川城の「防御の構えは大和の諸城中最も精緻かつ論理的で、縄張りの軍事的意味について教科書的な事例になりうる」とのことです。
土塁や空堀の跡が素人目にも明瞭で、現地は縄張り図通りの地形をしていました。
吉水寺跡天文七年十三重石塔。基壇一面に「天文七年(1538)戌戊/二親/善昌妙業/道観妙阿/卯月三日」。
上狭川城趾の北端には行者堂があり、役行者像が祀られていました。
上狭川城の空堀跡。
上狭川城の土塁跡。
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