普段は非公開の北円堂が特別公開されていましたので、拝観してきました。
北円堂は、興福寺の現存する建物の中で、南円堂裏の三重塔とともにもっとも古い建物です。
こちらの記事「貞慶と興福寺|安田次郎(お茶の水女子大学)」に次のように書かれていました。
承元4年(1210)に完成した北円堂にも貞慶の関与があった。北円堂は菩提山上人専心の勧進によって再建されたが、専心の勧進の拠り所となった勧進状や興福寺政所下文(まんどころくだしぶみ)を書いたのは貞慶であった。貞慶と専心は親しい関係にあり、ふたりは協同して北円堂再建に従事したとみていいだろう。貞慶と興福寺|安田次郎(お茶の水女子大学)
晩年の貞慶上人は観音信仰を重視するようになり、承元二年(1210)、貞慶上人自身の尽力によって弥勒信仰の中心となった笠置寺から、貞慶上人によって観音信仰の寺として再興された海住山寺へと移ります。北円堂再建への関与はその2年後のことです。北円堂の中に安置された弥勒坐像にも関わっていたことでしょう。貞慶上人は建暦三年(1213)、59歳で入滅しますが、弥勒坐像が造立されたのが建暦二年(1212)ごろとされていますから、もしなんらかの形で貞慶上人が弥勒坐像に関わっていたとすれば、それがほとんど最後の仕事だったかもしれません。
北円堂に収められた仏像はどれもすばらしく、とりわけ、やさしい光を讃えた無著像の瞳と強い意志を感じさせる世親像が印象的でした。玉眼に魂がこもっていて、まるで生きているかのようです。
© 弥勒の道プロジェクト
奈良と京都の県境を成す古道〜般若寺・浄瑠璃寺・当尾石仏の里・岩船寺・笠置寺を結ぶ道〜の再発見を通じて、奈良と加茂〜笠置の歴史をつなぎなおす「弥勒の道プロジェクト」。このプロジェクトは、誰でも気軽に参加できるプロジェクトです。参加方法は、古道の存在とその歴史的価値をあなたのまわりの人々に伝えること、古道周辺を探検してみること、それだけです!