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2024年1月28日(日)春日山原始林観察会「春日山の石仏」

  • 春日山原始林を未来へつなぐ会主催の春日山原始林観察会に参加してきました。狭川真一先生の解説で滝坂の道の石仏を巡るという贅沢な観察会でした。

  • (2024年1月30日(火) 午前0時10分0秒 更新)
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夕日観音の下で、夕日観音周辺の石仏について解説する狭川先生。

夕日観音

夕日觀音は観音と呼ばれていますが、弥勒如来像です。

道から見ると夕日観音の左下の岩のくぼみに四体の仏像が刻まれています(四体石仏)。ところで夕日観音の少し下に大日如来像が彫られた岩が横倒しになって転がっており、寝仏と呼ばれていますが、元は四体石仏があるあたりにあったものが、岩が割れて転がり落ちたとも言われます。しかし、そうとも限らないのではないかとのことでした。

道から見た四体石仏。

午前中の方が光が当たりやすいのか、この日はよく見えました。

岩塊の上に彫られた滝坂地蔵。

滝坂地蔵を見上げるみなさん。

朝日観音

朝日観音ではちょうどお顔に日が当たっていました。朝日が当たるから朝日観音と呼ばれるというのがよくわかる出来事でした。

朝日観音も観音ではなく、弥勒如来の左右に地蔵が彫られた磨崖仏です。右側の地蔵は追刻ですが年代はそれほど離れていないと考えられるそうです。

一方中尊と左の地蔵には銘文があり、昭和の頃に拓本が取られているとのことでした。中尊の右脇の銘文には「願以此力悲母尊霊離苦得楽発菩提心/及以□□(兜率)上生内院普□(照)四生平等利益/文永貮年乙丑十二月(1266年1月)大施主性勘 敬白」とあり、亡くなった母の供養のために造立されたことがわかるそうです。

また左の地蔵の右脇(中尊の左)には「南無当来導師梅怛隷耶仏/南無六道経法地蔵菩薩/干時文永弐年乙丑十二月日(1266年1月)大施主性勘敬白」と刻まれており、「梅怛隷耶」は「マイトレーヤ」と読み、つまり弥勒如来のことですから、この銘文によってこの像が弥勒如来だとわかったということです。

日の光が当たる朝日観音。

首切り地蔵がここにある理由とは?

「地獄」がつく地名は、温泉がある場所か死体を捨てる場所に多いそうで、首切り地蔵のあるあたりから東については、死体を捨てる場所だったと考えられるそうです。首切り地蔵は、死体捨て場の入り口を示すものだったのではないかとのことです。

鎌倉初期に成立した「古事談」に、室生寺の竜神が元は猿沢池にいたという伝説が載っているそうです。猿沢池で采女が投身自殺をしたために猿沢池にいた竜神が、穢れを避けて春日山の南の香山に移ったのですが、その場所の下には人が死人を捨てるところだったので、竜神はまた室生の龍穴に移ったという伝説です。

室生龍穴者、善達龍王之所以居也。件龍王初住猿澤池。昔采女投身之時、龍王避而住香山。春日南山也。件所下人棄死人、龍王又避住室穴、件所賢憬僧都所行出也。賢憬者、修圓僧都之師也。往年日對上人、有龍王尊體拜見之志入件龍穴、三四町計黑闇而其後有青天、所有、一之宮殿上人立其南砌。見之懸珠簾光明照耀有風吹動珠簾間、其隙伺見彼裹、玉机上置法華經一部。頃之有人之氣色問云、何人來哉。上人答云、爲奉拜見御體上人日對所參入也。龍王云、於此所不能奉見出此穴其趾三町計、可到對面也。上人卽如本出穴、於約束所着衣冠給、自腰上出自地中。上人拜見之即消失畢。日對件所立社、造立龍王體。于今見在云々。 祈雨之時、於件社頭有讀經等事云々。有感應之時、龍穴之上有黑雲頃之件雲周遍天上有降雨事云々。

この記述からすると、地獄谷の中でも、特に明治に作られた新池のあたりが、死体を捨てていた場所と考えられるそうです。ということは、滝坂の道は死体を運ぶ道だったわけです。それで道沿いに地蔵が多く作られたのではないかということでした。

また道の北側にだけ石仏が多いことには、春日山に穢れが入らないようにする意味があるとも考えられるそうです。さらに弥勒如来像が彫られていることは、詳細は不明であるものの出土採集品から平安後期に春日山に経塚が造営されていたとわかっているので、当時、春日山を弥勒如来が下生する霊山に見立てていたことを示している可能性があるといいます。

ちなみに、今では地蔵に限らず仏像によだれかけがかかっていることが多いですが、乳幼児は言葉が喋れないからあの世でもお地蔵さんに助けを求められないので、我が子のよだれが染み付いたよだれかけをお地蔵さんにかけて、この臭いがする子が来たら助けて欲しいと願いをかけたのが、よだれかけの始まりなのだだそうです。

首切り地蔵について説明する狭川先生。

奈良〜平安時代と鎌倉時代の石切の違い

奈良奥山ドライブウェイから地獄谷石窟仏(聖人窟)へ向かう道に少し入ったところの左手に、穴が一列に並んだ岩があります。この一列に並んだ穴は矢穴といって石を割るためにうがたれた穴ですが、矢穴で花崗岩を割る石切の技術は鎌倉時代に中国からやってきたのだそうです。したがってこの岩は鎌倉時代以降の石切の跡ということになります。

岩に刻まれている小さな石仏らしきものは、彫り方からするとおそらく江戸期のものだと思うとのことでした。

地獄谷石窟仏(聖人窟)のすぐ手前に奈良時代の石切場跡があります。奈良時代から平安時代までは柔らかい凝灰岩を切り出す技術しかなかったそうです。四角く削って運び出していくので、矢穴はありません。

古い石切場跡で石の違いを説明する狭川先生。

地獄谷石窟仏(聖人窟)

地獄谷石窟仏(聖人窟)は興福寺の伽藍を写したという説があるそうです。

奈良時代に地獄谷石窟仏(聖人窟)が造立された当初は奥壁の三尊のみからなり、中尊の主要な太い線のみ線彫され、他は墨書と彩色によって描かれていたと考えられるとのことです。その後彩色や輪郭線は何重にも塗り重ねられていて、赤外線で見ると新旧合わせて目が四つ見える像もあるといいます。

現在見えている線彫は「フニャフニャの線で下手くそ」ですが、この線彫は室町時代に追刻されたと考えられているそうです。

中尊像の尊名については諸説あります。しかしそれぞれ実は正解で時代によって尊名が変わったとも考えられるそうです。赤外線で見ると中尊は指が6、7本見え何度か書き直されているようです。また中尊の一部に金箔が残っているそうですが、金箔が残るということは一番上にあるということなので、新しく付け加えられたものとわかります。

東大寺管理下にあった当初は、薬師・盧舎那・観音で唐招提寺の並びの逆で、戒壇のための行の場だったのではないか、それが興福寺が管理していた時代に弥勒信仰へと変わり、鎌倉時代には左右の壁に追刻され、のちに阿弥陀へと書き換えられた、そんな変遷も考えられるのだといいます。

地獄谷石窟仏(聖人窟)の奥壁中尊は時代の信仰に合わせ姿を変えてきたというのは、この地で途絶えることなく信仰が生き続けていたことを思わせ、興味深い視点でした。

石窟仏を保護するため覆屋と柵があります。保護のためには湿度が高いことが必要で、覆屋には日光を遮り乾燥を防ぐ役割があるとのことでした。

右壁は妙見菩薩とされます。

地獄谷石窟仏奥壁。

春日山石窟仏

奈良時代に造立された花崗岩でできた石仏は笠置寺磨崖仏、新薬師寺石仏、芳山二尊石仏ぐらいしかないそうです。これらは当時は東大寺配下にあり、その東大寺は花崗岩加工技術を持つ新羅と関係がありました。つまり、これらの石仏は新羅の石工が造立した可能性が考えられるとのことです。

一方で地獄谷石窟仏(聖人窟)、春日山石窟仏(穴仏)は柔らかい凝灰岩に彫られており、当時の国産の技術で作られていると考えられるそうです。ちなみに花崗岩の加工技術がその後日本に再導入されるのは、南都焼き討ちからの復興で中国から石工が渡来した鎌倉時代以降で、渡来人はのちに伊派などの石工集団を形成したといいます。

東窟の中央にあるのは仏塔で、五重の屋根が表現されており、塔の一番下には四方仏が刻まれているとのことです。奥壁に六地蔵が、西壁には六観音が彫られています。東窟の六地蔵、六観音は、それらの早い事例ともみられているようです。

また両窟に四天王が彫られています。東窟は観音の右と、外から見ると岩の影になっている地蔵の左に四天王があります。凝灰岩でもろいため大岩が崩落して真ん中が潰れていますが、その下にも四天王があったはずだそうです。

東窟について解説する狭川先生。

仏塔の下部に四方仏の一つが残っています。奥に六地蔵があり、左端の小岩の裏に四天王が彫られています。四天王の頭だけ見えています。

東窟西壁の六観音像。右端は四天王像です。

両窟の中央に大岩が崩落し、いくつかの石窟仏を潰してしまったようです。

西窟には金剛界五仏の如来坐像が彫られていると推測されているそうです。西窟の四天王像は一番左にあり、邪鬼が踏まれていることもわかります。五仏の間に久寿三年(1156)と保元二年(1157)の銘文があるとのことです。

像の雰囲気が京都国立博物館の庭園で展示されている京都安楽壽院の石仏と似ていることから、平安京の石工が関与したとも考えられるそうです。

高山水船

高山(こうぜん)神社前の水船は水源地に置かれてます。蕨手文が刻まれた立派なものですが、どのように使っていたかはよくわかっていません。この水船で水を受けていたのは確かであるものの、二つ穴があいていて、受けた水を常に溢れさせて使っていたわけでもなさそうだとのことでした。

ここの水源地は興福寺東金堂が管理していたため、現在道側となっている側面に「東金堂施入高山水船也 正和四年(1315)〈乙/卯〉五月日置之 石工等三座」の銘があります。

また花山の北西に春日水谷神社があり、そこには西金堂の銘がある長尾水船があるといいます。こちらは西金堂管理の水源地だったそうです。

参考)

こちらが長尾水船です(『奈良市石造遺物調査報告書 解説・図版編』(1989)より)。
高山水船とは違い内側四隅が直角。外側四隅にある蕨手状の把手が特徴で、側面には渦巻の線刻もあるらしい。こちらも洗練された雅な雰囲気があって良き。 pic.twitter.com/SzELIi8xtO— 兎天良(とてら) (@26_N_1288) September 17, 2021

蕨手文を指差す狭川先生。

皆さんがみている側に銘文があります。

カナンボ石の謎

春日山からはカナンボ石という青みがかった安山岩(三笠山安山岩)が採れ、高級石材として知られていたそうです。叩くと金物のような金属音がするからカナンボ石というようです。18世紀に春日山でものを採ってはならないという規則ができて以降、カナンボ石で作られた墓石が見られなくなるとのことです。しかし実は春日山のカナンボ石採掘場は未発見なのだそうで、もし採掘場を見つけたら教えて欲しいとのことでした。意外なことがまだわかっていないということに驚かされました。

参考)カナンボ石が出てくる動画。
https://www.youtube.com/watch?v=iyWwGd3L928&t=1107s

とても勉強になる盛り沢山の観察会でした。春日山原始林を未来につなぐ会の皆様、狭川真一先生、ありがとうございました! なお、この記事は私のあやふやな記憶に基づくものですので、狭川先生が実際におっしゃったこととは異なる可能性があります。そのあたり、くれぐれもご承知おきください。

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