9月10日は実範上人のご命日ということで午前中に奈良市中ノ川町の実範上人御廟塔の前で法要が営まれました。
雨の中営まれた法要の様子。
今日はあいにくの雨でしたが、今年は興福寺、般若寺、浄瑠璃寺、岩船寺の四ヶ寺による合同法要となりました。明治までの元の本山と末寺が法要を共にするのは、ひょっとすると150年以上なかったことかもしれません。
興福寺の大乗院寺社雑事記に、尋尊大僧正が中川寺、浄瑠璃寺、隋願寺、般若寺を巡礼した記事があります。巡礼先に岩船寺の名前はありませんが、「等」とあることから、ひょっとするとこの時の一行は岩船寺にも立ち寄ったかもしれません。この尋尊大僧正の記事にもあるように、古くから親交の深かった寺々が、実範上人のご縁で今また中川寺跡に集うというのは、なんとも感慨深いものがありました。
享徳四年四月四日
成身院中川・西小田原・東﹅﹅﹅・般若寺等巡礼、安位寺殿・東南院殿・予同道申了、於中川テ予一献沙汰了1455年4月4日
中川寺成身院、西小田原山浄瑠璃寺、東小田原山随願寺、般若寺などを巡礼した。安位寺殿と東南院殿が同道すると事前に知らせてあった。中川寺であらかじめ一献もてなされた。
しかし実のところ実範上人御廟塔は、実範上人のお墓かどうかわかっていません。御廟塔と伝わる五輪塔は鎌倉時代のもので、実範の没年と整合しないことから、もしこの五輪塔がお墓だとすれば、天養元年9月10日(1144年)に実範が光明山寺(江戸期までに廃絶・蟹満寺近くの山中にあった)で遷化して百年ほど経ったのち、実範とゆかりの深い中川寺に分骨したものかと言われています。
黒田曻義「当尾と柳生の寺々 : 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」によると、この実範上人御廟塔は大正13年に奈良まで運び出され、危うく転売されそうになったといいます。その際基壇中に納骨があったのを見たという、お年寄りの証言もあるそうです。つまり一度運び出されていますので、御廟塔の元の位置が現在地と異なる可能性もあります。
https://www.youtube.com/watch?v=yc4SKS5OT78
動画は合同法要の様子です。テントは浄瑠璃寺のご住職が用意されました。今回導師を浄瑠璃寺のご住職が勤められたのですが、前日風邪をひかれたとのことで、声を出すのが少しお辛そうでした。風邪気味を押して4回ぐらい観光客に解説をしたら、声が出なくなってしまわれたのだそうです。
実範上人は平安時代後期の高僧で、興福寺で法相を、醍醐寺で真言を、比叡山で天台を学び、天永3年(1112年)ごろ、中ノ川の地に、法相、真言、天台兼学の道場として中川寺成身院を開きました。また実範は、南都仏教における戒律復興運動の源流として、日本仏教史に位置付けられています。その志は、のちの貞慶、叡尊へと受け継がれていきました。
現在も興福寺は法相宗です。一方、浄瑠璃寺、岩船寺は、元は興福寺の末寺でしたが、明治初期、神仏分離令の混乱で般若寺と同じ西大寺の末となり、現在は叡尊を宗祖とする真言律宗となっています。これらの四ヶ寺が、実範上人が開き諸宗に学んだ中川寺の地に、同じく実範上人の遺徳を偲んで集まることは、歴史的にも意義深いことのように感じました。
法要の準備をされるお坊さま方。宗派は違えど阿吽の呼吸で法要の次第が整いました。
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