毎年11月3日(年によって前後の連休も)10時から16時まで旧燈明寺の寺宝が御霊神社脇の収蔵庫で無料公開されています。
旧燈明寺の寺宝は、毎年文化の日前後の連休中に特別公開されます。
加茂駅から東に少し歩き川を越えると御霊神社があります。ここには昭和の中頃まで燈明寺がありました。御霊神社後ろの山は燈明寺山と呼ばれています。燈明寺は明治期の廃仏毀釈で立ち行かなくなり、大正3年(1914)に三重塔が売り払われ横浜 三溪園に移築されました。残った本堂も昭和23年(1948)の暴風雨で大破し、解体保管された後、昭和57年から62年にかけ、5年がかりで同じく三渓園に移築されました。なお本堂を失った燈明寺は昭和27年に廃寺となっています。
この収蔵庫は、燈明寺の観音像5体と燈明寺関係資料を収めるため、東京都の正法護持財団が昭和60年(1985)に建てたものです。平成元年(1989)、収蔵庫は川合京都仏教美術財団に引き継がれ、今日の特別公開にも財団の名札をつけた方が立ち会ってらっしゃいました。
燈明寺についてはこちらの記事「旧燈明寺跡見学 : 木津川の地名を歩く会」がとてもくわしかったです。
旧燈明寺の寺宝を収める収蔵庫。手前は川合京都仏教美術財団による、収蔵庫の経緯を説明する石碑。
収蔵庫には、千手観音、十一面観音、不空羂索観音、聖観音、馬頭観音の観音像などが収められています。いずれも鎌倉時代後期の作と見られています。
収蔵庫内ではカメラの撮影が許可されなかったので、「燈明寺型」と呼ばれる石燈籠越しに千手観音様を撮影してみました。
この石燈籠は、享保12年(1727)ごろ本堂が大破した際、修理費用を得るため三井家に売却する本物の替わりに造られた、模作とのことです。鎌倉時代に造立された本物の名物石燈籠は、のちに三井家から寄贈されて、現在は京都の真如堂にあるそうです。
さらにのぞき見て、めいいっぱい拡大。立派な十一面観音様です。お堂がないのが気の毒でした。
大坂の書林河内屋から天明7年(1787)秋に板行された「拾遺都名所圖會」に、加茂東明寺の絵図が掲載されています。三渓園に移築された三重塔は御霊神社社殿の右手奥にあったことがわかります。
本堂の前に燈明寺型の石燈籠も描かれています。鎌倉時代の石燈籠を三井家に売った後の絵図ですから、この石燈籠は模作ということになります。この絵図が描かれたころ、十三重石塔は御霊神社の左脇にあったようです。
御霊神社社殿の右側にある鐘楼の跡。石垣が残っています。
鐘楼跡の奥にある四角い平坦地に、三渓園に移築された三重塔がありました。
三重塔跡地。パノラマなので歪んでいますが、左側から上がって来る道と右側へ上って行く道はほぼ直線上にあります。左側三分の一あたりにある矢印の先が御霊神社の社殿です。
中川寺址にある四角い平坦地とそっくりです。このくらいの広さの平坦地なら、中川寺址にもたくさんありました。
収蔵庫に保存された資料には、近世造られた燈明寺の見取り図があるのですが、その図では、上写真の左側から三重塔へ上ってくるスロープが石段となっています。ところが現在、このスロープには石段がありません。それどころかその痕跡すらありません。石段はすっかり撤去されて、石材としてどこかへ売り払われたのかもしれません。石材が跡形もなくなくなっているのも、明治期に廃寺となった中川寺趾とよく似ています。
御霊神社は、元は燈明寺の鎮守社として奈良の氷室神社の古社殿を移築したと伝えられているそうです。南北朝時代に創建された三間社流れ造りの檜皮葺で、重要文化財に指定されています。
御霊神社。
社殿脇の解説文。
本殿左にある舞楽の彩色画。
本殿右にある舞楽の彩色画。
急燈明寺/御霊神社から加茂駅へ向かって歩いて行くと、住宅地の中に一部参道と一の鳥居が復元されています。この参道と鳥居は上の東明寺図絵にも左下に描かれています。当時はまわりが田んぼだったようです。
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