古道を復活させると、地域文化の裏にある人々の交流に想像が膨らみます!
弥勒の辻、弥勒磨崖仏。中国からやってきた石大工、伊行末の孫、伊末行の作。故郷を遠くはなれこの地にやってきた石大工の一族はどんな思いで石仏を彫ったのでしょうか。
意外なところに建つ伊勢への道標。伊奈良市緑ヶ丘浄水場の西端にあり、伊勢まで二十七里と書かれています。この道標が指す「伊賀伊勢道」は、ここから梅谷に下り高田を経て木津川沿いに伊賀へ向かう道のことで、尾根筋を登る県境になっている道は「笠置街道」と呼ばれていたようです。しかしその笠置街道も結局笠置で伊賀伊勢道と合流し、やはり伊勢へと向かいます。尾根を登りきったあたりにある牛塚の傍らに伊勢参りの記念碑があることから、県境になっている道を通って伊勢へ向かった人々も多かったことがわかります。
古道に秘められた数々の物語が観光資源を有機的につなげます!
般若寺など奈良市北部地域への観光客誘導にも有効でしょう☆
実範上人御廟塔。中川寺が廃寺となった中ノ川では、明治期の廃仏毀釈の爪痕が深く、黒田曻義 著「当尾と柳生の寺々 : 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」によるとこの五輪塔も売り払われそうになったとか。
西念寺の秘仏、薬師如来坐像(非公開)。この薬師如来坐像は、応仁の乱の混乱の中、中川寺が焼亡する直前まで中川寺にあったと伝えられています。
これほど長く使われ、さまざまな文化を運んだ道を、私たちの世代で完全に失ってしまうのは、本当にもったいないと思います。
実質的な通行妨害がつづいていることもあり、今はほとんど忘れ去られ、失われかけている古道ですが、それでもほんの少し前までまだ道として使われ続けていた痕跡があちこちにあります。今ならまだ復活させられます。ぜひハイキングコースとして復活させましょう! きちんと整備すればきっとステキな道となるにちがいありません。
謎の護摩石。古道から梅谷の尾根筋を尾根の先端、梅谷三角点あたりまで歩くと、木々の間に打ち捨てられています。護摩石と呼ばれるわりに、焦げ痕はなく、四隅のほぞ穴に支柱を差して宝塔を立てた基壇と推測されています。般若寺のご住職は、梅谷の水源地を見下ろす位置にあることから、雨乞いの儀式などをしたのではないかとおっしゃっていました。
中川寺跡北側には中川寺の池の跡から流れ出た川に、崩れた宝塔が散らばっています。かつてこのあたりに中川寺が存在したことを感じさせます。川には石橋のようなものがかかっています。
中川寺跡の少し東側に、今はすっかり埋まってしまった排水溝の跡と、排水溝に渡された石橋があります。往来が絶えなかった頃は、この道もよく整備され、山肌から染み出す水で道がぬかるむこともなかったのでしょう。
浄瑠璃寺南側へつながる道の直前で、この古道は薮に覆われてしまいます。現在は草刈りが行われ、道の入口がわかるようになっています! この写真右側の車の退避スペースのようになっているところが道の入り口です。
古道がハイキングコースとして復活したなら、観光のバリエーションも増えるでしょう。JR加茂駅の交通の便はお世辞にもよいとは言えません。もし、スタートとゴールのどちらかが奈良市内だったら、交通の便も良くなり、見て回れる場所も増えます。
たとえば、バスで岩船寺まで行き、石仏を巡ったあと、浄瑠璃寺を経て、古道を通り、般若寺に下るコースはどうでしょうか。浄瑠璃寺からはほぼ下り坂となるので、歩いてもそれほどたいへんではありません。浄瑠璃寺から東大寺まで歩いてみたところ(GPSによる計測で)10キロほどでしたから、岩船寺から浄瑠璃寺を経て近鉄奈良駅まで歩いてもおそらく15キロ程度でしょう。
実際、堀辰雄が、昭和18年ごろ、この道をまさにハイキングコースとして、彼の妻とともに歩いています。昭和18年(1943年)6月に「大和路・信濃路」の「浄瑠璃寺」として「婦人公論」に寄せたエッセイ「浄瑠璃寺の春」には、次のような記述があります。
「奈良へ
著 いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英 や薺 のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸 っとたどりついた浄瑠璃寺の…」「その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。」
つまり、この日堀辰雄夫妻は、奈良から浄瑠璃寺までこの道を上って帰って来たようです。奈良から「二時間あまり」、すなわち10キロ程度で、浄瑠璃寺にたどりつくには、この道以外考えられません。それにしても、浄瑠璃寺までの山道を往復し、さらに東大寺三月堂に立ち寄って、春日大社の森を散歩した、ということは、なかなか本格的なハイキングですね。見どころもたっぷりです。
また、般若寺のご住職も、昔は自転車で(!)、般若寺から浄瑠璃寺まで、この道を行き来していたそうです。「昔はまさにハイキングコースだったんですよ」とおっしゃっていました。
水呑み地蔵。浄瑠璃寺の南側には、鎌倉時代、赤門と呼ばれた浄瑠璃寺南大門がありました。そのそばにあった地蔵堂に祀られていたのがこのお地蔵様です。康永二年(1343年)、この南大門から火災が起こり、浄瑠璃寺の多くの建物が焼け落ちてしまいます。このとき地蔵堂も焼け落ち、焼け仏となったまま放置されてきたのかもしれません。すぐ脇から今も水がわき出しています。江戸時代初期の剣客、荒木又右衛門がここで休み水を飲み、それから水呑み地蔵と呼ばれるようになった、とも伝えられています。このわき水が、再び(ハイキングを楽しむ)旅人ののどを潤す日は来るでしょうか。
奥に、荷役の牛を供養した牛塚石塔、伊勢参りの記念碑。手前には、首を欠損した石龕仏。80年代ごろまでは首があったとのことです。ここ数十年の間に何者かに持ち去られたようです。牛塚の十三重塔は笠石が一部失われています。こちらは明治一時売られてしまった結果だそうです。あとで戻ってきたのだとか。この尾根筋から北側を望むと加茂盆地が見渡せます。景色がよく、記念碑を建てたくなるのもうなずけますね。浄瑠璃寺からこちらに降りてきたなら、あとは尾根伝いにぷらぷら歩けば、般若寺はもうすぐそこです。般若寺からは、いっそバスを使わず、最近かわいいお店が増えてきた近鉄奈良駅の北側界隈、あるいは、東大寺境内を通って、駅まで歩いてしまうのもよいでしょう。
くわしくは下記事をご覧ください。
奈良市と木津川市が協力して地権者と交渉し、ハイキングコースなどの形で古道を再整備するようよびかけましょう! 人の往来が復活すれば、道周辺の地域が活性化するだけでなく、不法投棄や犬の放し飼いなど迷惑行為の抑止力にもなるはずです。
奈良と京都の県境を成す古道〜般若寺・浄瑠璃寺・当尾石仏の里・岩船寺・笠置寺を結ぶ道〜の再発見を通じて、奈良と加茂〜笠置の歴史をつなぎなおす「弥勒の道プロジェクト」。このプロジェクトは、誰でも気軽に参加できるプロジェクトです。参加方法は、古道の存在とその歴史的価値をあなたのまわりの人々に伝えること、古道周辺を探検してみること、それだけです!