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古道地図今昔

簀河(すがわ)

笠置街道が最初に文献に登場するのは、春日社家日記の中臣祐定(なかおみすけさだ)記に書かれた注進状の写しです。

嘉禎二年(1236)十月九日
注進 御供養途可令運上路々事
 東路  簀河路 誓多林路 田原路 福住路
 南路  上津路 中津路 下津路
 西路  大坂路 亀瀨路 信貴路 生馬越路 上津鳥見路
 北路  木津路 東路 笠置路
右十五ヶ所道注進如件

この注進状は南都(奈良)へ通じる主要道の一覧で、この中の「簀河(すがわ)路」が笠置街道を指すと推測されています。笠置街道は須川(すがわ)を通るからです。

嘉禎元年(1235)夏、南山城で石清水八幡宮領薪郷と興福寺領大住庄とが用水を争い、村民の八幡神人(じにん)(平安時代から室町時代の下級神職)と春日白人神人(はくじんじにん)との間で刃傷事件が起きました。鎌倉幕府の裁判でいったん解決したのですが、その後も殺傷事件が起きるなどしたため、両者からの強訴が相次ぎ、鎌倉幕府も解決に困る事態となります。

当時春日社興福寺は全盛期にあって勢いにのっており、石清水八幡の神郡とも言える綴喜郡をも制圧して、奈良から京都に至る上洛路をすっかり支配下に収めたいという野心を持っていました。これに対し鎌倉幕府は当初、増長する南都をなだめ続けていましたが、翌年の嘉禎2年、大和に初めて守護を補任し、畿内の御家人を動員して南都を包囲、行き来をふさいで関所を設けました。

この南都包囲によって、春日大神の神供(じんく)が欠乏するようになり、これを春日社が氏長者(うじのちょうじゃ)に愁訴します。その結果、神供に春日社の署名と花押のある木札をつけ関所の通行許可証とすることとなり、15枚の木札が氏長者に渡されました。つまり当時南都に通じる主な街道は十五道だったとわかります。中臣祐定記にある注進状は、この十五道を一覧にしたものです。

(参考文献:奈良市史 通史二 258ページ)

上地図に、11世紀後半から13世紀後半の荘園と山岳寺院の位置を示しました(加茂町史・奈良市史から作成)。この図を見るとわかるように、簀河路沿いには興福寺一乗院と関わりの深い山岳寺院および荘園が連なっています。簀河路は、大和国一帯が興福寺の荘園となっていく中で、興福寺、とりわけ一乗院にとって、寺領統治の上で重要な道だったことでしょう。

下記事は浄瑠璃寺流記事にある、大湯屋修理のために石舟を運搬したときの記録です。時は1475年、応仁の乱のさなかのことでした。さまざまな人々の協力によって事が成就したことを「目出度シ」と記し、喜びとともに伝えています。このとき運ばれた石舟は、現在浄瑠璃寺本坊のかたわらに置かれています。

僧侶と商人以外では、浄瑠璃寺、岩船寺近隣の人々、大門や鳴川の人々のほか、興福寺一乗院の荘園だった狭川・福智・簀川(須川)や中川寺の関係者が多数参加していたことがわかります。まさに笠置街道(簀河路・廣岡越)沿いの人々が入れ替わり立ち替わり綱を引いていたようです。

大湯屋修理、船損ルニ依ッテ、冷水浴之石ヲ切リ始ムル事。

文明七年未乙六月十二日自リ之ヲ切リ始メ、同八月四日辰時自リ申時終程ニ引付畢ンヌ。
其時ノ人数東小田原寺惣山畑非衆マデ一円雇ヒ申ス。岩船寺一山一円也。同ジク大門ノ衆皆、鳴川一円ノ老若衆マデ、海住山寺ノ東坊房主浄恩房、華厳院□□□□引キ畢ンヌ。相楽ノ了順房高野参詣ノ次イデナガラ、庫蔵院ニ立チ寄ル分ニ引キ畢ンヌ。其外賀茂竹買四、五人理趣院宿ニテ同里船屋ノ右馬五郎・高田□太郎大夫、冷水坊臼買ウフベシトテ、岩本立寄リナガラ次デニ引キ畢ンヌ。簀川三郎次郎ヲウカ榑商次デ同ヲウカ引キ次ギ畢ンヌ。コレハ江州者也。同弟子衛門三郎コレハ京者也。其外当尾・狭川・福智・簀川・奈良帰リノ男女、見物ナガラ綱ニ取付キ引キ畢ンヌ。同中川順学房・阿弥陀院定顕房見物ナガラ人数ナリ。其外中川寺ヲ雇ヒ申ス処ニ人余ルトテ、軈テ帰リ申シ畢ンヌ。只シ行春房・行光房入峰先達ニテ他行。順識房熊野巡礼他行。実行房・良順房・円現房・観宗房北巡礼他行、只シ寺中ニ在リナガラ空他行、宗舜房同良禅房ハ三月二日自リ奈良ヘ他行トテ、其外当寺老若□□□畢ンヌ。急速ニ事成リ畢ンヌ。目出度シ。

廣岡越

中臣祐定記に書かれた簀河路がどこを通る道だったのかは、18世紀前半の江戸時代中期に編纂された「五畿内史大和志」にある疆域(境域)の項から推測できます。この項で、南都へ至る主要道の一つとして須川を通る「廣岡越」があげられており、簀河路はおそらく「廣岡越」とほぼ同じ道筋をたどったと思われます。

廣岡越 相楽郡界 至奈良坂三里許 所歴曰廣岡曰下狭川曰上狭川曰法用曰鳴川曰中川又自中川外通西小田原一徑謂之中川越又自奈良坂外通賀茂一徑謂之賀茂越

これを現代語に意訳すると次のようになります。

広岡越は相楽郡との境界から、廣岡、下狭川、上狭川、法用、鳴川、中ノ川を経て、奈良坂まで三里(11.8キロ)ほどです。また中ノ川から西小田原(浄瑠璃寺)に通じる支線があって中川越と呼ばれています。また奈良坂から加茂へ通じる道もあり加茂越と呼ばれています。

広岡から奈良坂までを三里とするのは短すぎる気もしますが、今も残る地名が具体的に書かれています。また、奈良坂から現在の県境沿いに浄瑠璃寺南へ至る道は、中川越と呼ばれていたことがわかります。

大和志が書かれたのは江戸中期で、中臣祐定記からかなり時代が下りますが、浄瑠璃寺の開創が永承2年(1047)であり、中川寺の開創が天永3年(1112)ごろであることを考えると、中川越道が中臣祐定記より前から存在したことは確実です。

また浄瑠璃寺流記事には、平治二年(1160)十二月十日、前年十一月勢覚の勧進によって上棟された十万堂に、随願寺や中川寺の人々が蜜供養を施したことや、延応二年(1240)三月二日の真言堂供養に、中川寺の僧侶も参加したことなどが書かれており、当時中川寺と浄瑠璃寺の間に頻繁な行き来があったことがうかがわれます。中川寺から浄瑠璃寺へは、一番の近道である中川越道が使われたことでしょう。

奈良道

「中川越」で西小田原浄瑠璃寺へ通じていた道は、浄瑠璃寺で終わっていたわけではないようです。明治十六年に編纂された「京都府地誌相楽郡村誌」(加茂町史 資料編1)を見ると、当尾の村々に「奈良道」と呼ばれる道があり、この道が西狭川村から中川越道へ通じていたことが読み取れます。

大畑村  村ノ北方大和国添上郡西村界ヨリ本群岩船村界ニ至ル(※西村=西狭川)
岩船村  村ノ東方大畑村界ヨリ西方東小下村界ニ至ル
東小下村 北方岩舟村界ヨリ東南方東小上村界ニ至ル(村道)
東小上村 村ノ東方東小下村界ヨリ西方西小村界ニ至ル
西小村  東方東小上村界ヨリ、南方大和国添上郡中川村界ニ入ル

相楽郡村誌は明治時代の記録ではありますが、「奈良道」沿いには、水呑み地蔵(鎌倉時代)、一鍬地蔵(鎌倉中期)、唐臼の壷阿弥陀・地蔵磨崖仏(康永二年(1343))、わらい仏(永仁七年(1299))、弥勒の辻・弥勒磨崖仏(文永十一年(1274))が残されています。この道が鎌倉時代からあることは明らかです。

一等里道

「奈良道」は、西狭川(西村)との境界で終わっていたのでしょうか。明治22年に作られた「添上郡西村実測全図」(奈良市役所東部出張所所蔵の複製図)を見ると、岩船村で「奈良道」とされていた道が、西狭川でも「一等里道」として続いていたことがわかります。

添上郡西村実測全図。左端が相楽郡岩船村との境界になります。太めの赤線で書かれているのが一等里道で、この道は岩船村との境界から谷へ下り、安郷川沿いに笠置へ通じています。

鎌倉時代に造立された弥勒の辻・弥勒磨崖仏が岩船にあることは、「奈良道」が鎌倉時代には既に笠置まで通じていたことを示唆します。弥勒の辻・弥勒磨崖仏は笠置寺弥勒磨崖仏を模していると言われ、この像が弥勒の辻に造られたのは、磨崖仏の前を通る「奈良道」の終着地、笠置山を意識してのことではないでしょうか。

明治時代までの笠置街道

1918年(大正7年)の「奈良市街全圖・實地踏測」中の略地図

五畿内志大和志では広岡越道の支線として中川越道が記述されていますが、1918年(大正7年)の「奈良市街全圖・實地踏測」中の略地図では、中川越道も主要な道として描かれています。

1918年(大正7年)の「奈良市街全圖・實地踏測」中の略地図。右上の青い線で強調した道が笠置街道本道(=簀河路=広岡越道)で、そこから分岐している赤い線で強調した道が中川越です。中川越道は笠置街道本道と同じ太さで描かれています。

昭和18年ごろの地図

昭和18年に出版された黒田曻義「当尾と柳生の寺々 : 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」にある地図では、明治の頃とは少し笠置街道の道筋が変わっています。堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」が書かれたのはちょうどこのころです。

赤色で強調したのが明治までの笠置街道本道で、黄色で強調したのが中川越道です。青色はそれまでの地図では主要道として描かれていなかった道です。左上の青い部分は安郷川上流の渓谷沿いの道で、明治の段階では存在しなかった道です。

県道33号線

笠置街道(=簀河路=廣岡越)本道は、現在県道33号線「笠置道」となっています。車道とするため、いくつかの場所で道が付け替えられており、旧道の一部は廃道となり通れなくなっています。

現在の笠置街道。高解像度画像はこちら(8.6MB)。本道は県道33号線となり道が付け替えられていますが、中川越道は平安時代末のまま今に残されています。しかし現在、中ノ川から東鳴川を経て浄瑠璃寺に至るの区間の一部が急速に荒廃しています。そこで現在、弥勒の道プロジェクトの一つとして古道の復興が進められています! ボランティアの皆さんのパワフルな働きにより、古道復興はいよいよ現実味をおびてきました!

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© 弥勒の道プロジェクト (CC BY 4.0)


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