山の上の鉄塔近くにある、物見の城だったと考えられている城跡です。
頂上の平坦地の端(奥)に土塁が見えます。
須川と大柳生の境にある鉄塔のそばに、簀川内膳之助義正の城で「高觴(たかつき)城」と呼ばれていたと伝わる須川城跡があります。
城跡の北東の角は、鉄塔建設工事で一部破壊されましたが、山頂部に30〜40m四方ほどのほぼ正方形の平坦地が造成されており、四方を土塁が囲んでいます。
多聞院日記、天文十二年(1543)四月十六日条に「今暁従筒井簀川被取懸了、(中略)順昭自身被出張、彼在所三ツ城アリ、今日二ノ城落居了、(中略)本城は未無退城、(中略)寄手ハ六千騎、城中ニハ僅五六十騎也」とあり、翌十七日条に「簀川城今日辰貝時分に、依多田桝(扱)、タウノヲノ奥方マテ罷離了、今日ハ陳(陣)ヲひかへて竹木ヲ被拂」とあります。
須川城は、須川氏が筒井氏についたために、古市氏に攻められ落城したとのことです。
ただ、山の上にある須川城は須川に三つあった城のひとつで、本城ではなく、物見の城とだったと考えられています。本城はふもとの民家があるあたりにあったようで、この辺りの民家には、「堀口」、「大門」など城跡を思わせる苗字の家があり、「城口」「大門」といった地名(小字)も残っています。
(参考文献:「東里村史」1957、406-407頁・「奈良市史 通史二」1994、518頁)
土塁の南東角から撮影した須川城のパノラマ写真。山頂はほぼ真四角の平坦地となっており、四方を土塁が囲んでいます。
須川城(高觴(たかつき)城)跡縄張り図。鉄塔の保守路があるので、比較的アクセスしやすい山城跡です。
明治22年(1889)に作成された須川村実測全図には、須川城本城の痕跡を窺わせる地名が残っています。
現在の航空写真に古い地名を書き込んだもの。
多聞院日記・第一巻、320頁
多聞院日記・第一巻、321頁
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