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2020年1月21日(火)蟹満寺・光明山寺跡

  • 石造美術に詳しい方の案内で、蟹満寺や光明山寺を巡って来ました。

  • (2021年10月27日(水) 午後5時54分49秒 更新)
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光明山寺跡と伝わる木津川市山城町綺田光明仙付近。

蟹満寺にある実範上人の墓石

蟹満寺の駐車場側にある東門の脇に、小さな地蔵堂があり、その中に実範上人(?〜1144)と重誉上人(?〜1143)の墓石が納められています。実範上人は晩年、蟹満寺の東方1.5kmほどの山中にあった光明山寺に入り、天養元(1144)年、光明山寺で示寂しています。重誉上人も、同時期光明山寺を拠点に活動した学匠です。

今日案内してくださった方によれば、墓石自体は近世以降のもので、江戸初期に光明山寺が廃寺化した際に、光明山寺から蟹満寺に移されたか、新造されたのではないかとのことでした。

蟹満寺の釈迦如来坐像は白鳳時代の金銅坐像で、国宝に指定されていますが、この像が元からここにあったのか、それともどこか近くの大寺院から移されてきたのか、諸説あります。2005年の木津川市の調査では、地層の状態から、台座は当初のものが残されていると判断され、釈迦如来坐像は1300年前から動いていないとされました。ところがその後、2008年の木津川市の調査では、台座の下に江戸時代の地層が入り込んでおり、台座も近世の墓石を転用したものだとわかりました(「1300年不変」揺らぐ?/京都・蟹満寺の国宝坐像)。

ということは、江戸初期に、実範上人・重誉上人の墓石とともに、釈迦如来坐像が、荒廃した光明山寺から、麓の蟹満寺に移されてきたということもあり得なくはなさそうです。蟹満寺は一時期光明山寺の子院だったようで、歴史的に関係が深かったことから、蟹満寺が光明山寺の法灯を継ぐ形となったのかもしれません。

ちなみに蟹満寺の現在のお堂は、2010年に建て替えられたものです。その前のお堂は今より一回り小さく、釈迦如来坐像が窮屈そうに見えたといいます。そのことからも、釈迦如来坐像が別の場所から移されてきた可能性が高いように感じられたと、今日案内してくださった方もおっしゃっていました。ただ、釈迦如来坐像が元あった場所としては、光明山寺よりも、蟹満寺近くの井堤寺や、国分寺などが有力視されているようです。

蟹満寺山門。

裏門脇の小さな地蔵堂。実範上人と重誉上人の墓石も納められています。

実範上人の墓石。

和州中ノ川成身院光明山実範上人と読めます。

光明山寺跡

光明山寺については、こちらのWebページ「かげまるくん行状集記/本朝寺塔記「第6回 光明山寺跡」」が、網羅的にまとめているのでぜひご覧ください。参考文献が明示されていて、大変勉強になります。

光明山寺跡に実際に行ってみると、往時の面影はまるでなく、ここに大寺院があったとは想像もつきませんが、それでも奥まった場所にある田んぼのまわりに、礎石らしいものがあったり、宝篋印塔の笠石が落ちていたりしました。残念ながら、光明山寺跡周辺は筍栽培が盛んで、タケノコのために造成が繰り返されているため、お寺の跡が地形として残っている可能性は、ほとんどないと思います。今日案内してくださった方によると、昔落ちていた宝塔残欠のいくつかは、知らない間になくなってしまったとのことでした。

京都府遺跡地図によると、光明山寺跡は非常に広く、木津川市山城町綺田光明仙、車谷、地獄谷、馬場坂、穴虫のあたりと考えられているようです。

光明山寺跡で気になるのが、谷あいにある平地の奥で、天神川が北から南へ、南北方向に流れているところです。中川寺跡がそうであるように、小川が南北に流れている場所は、山岳寺院に向いているように思います。東西にお堂が向き合う形にできるので、仏教の世界観を表現しやすいのではないでしょうか。この辺りの山中に何か残っていないか気になります。

写真に撮り忘れましたが、光明山寺跡からは、遠く生駒山まで見えました。

ところで蟹満寺の北、渋川沿いにある高倉神社に、以仁王の御墓があります。治承4(1180)年、以仁王は源頼政の勧めで、平清盛とその一族の追討を命じる令旨を、密かに源氏勢力に宛てて発しましたが、それが露見したため、平家の追討を受け、興福寺を頼って都を落ちる途中、この地にあった光明山寺の鳥居の前で、流れ矢に当たって落命しました。高倉神社のすぐ近くには、「綺田鳥居(かばたとりい)」という地名が残っており、光明山寺と関連のある鳥居がこのあたりにあったと考えられています。

つまり当時、山中の光明山寺跡から麓の奈良街道に至るまでが、光明山寺の寺域とみなされていたわけですから、光明山寺は非常に大きな寺院だったとわかります。

なお明治時代の地図を見ると、麓から光明山寺跡に至る道が二本ありました。一つは高倉神社から渋川沿いに遡り尾根道を登る道で、もう一つは蟹満寺のあたりから尾根道を登る道です。

この二つの道は国見観音のあたりで合流して、地獄谷と車谷に挟まれた尾根筋をたどり、光明山寺跡へ続いています。おそらくこの二本の道は、かつての光明山寺参道と重なるのではないかと思います。

実際、国見観音へ行ってみると、国見観音から二本の道が麓へ向かって伸びていました。一本は、南西方向にくだる道で、農道から国見観音まで歩いて来た道です。この道は、現在農道のために切り通しとなっている場所を越えて、おそらく蟹満寺まで続いている(た?)と思われます。もう一本は、北西方向へくだる急な坂道となっていましたが、これは高倉神社の方へ向かう道だと思います。いずれの道も、長い年月多くの人馬が歩いたために深くえぐられて、堀のようになっていました。

国見観音自体、古墳の裾にあるそうですが、光明山寺の参道一帯には車谷古墳群があり、古代から、力のある豪族がこの辺りを拠点に活動していたことがうかがえます。坂上 雅翁「光明山寺を中心とした南都浄土教の展開」に、京都府山城町教育委員会「京都府山城町埋蔵文化財調査報告書」第31集(2003)「車谷古墳群(附.光明山寺跡関連遺跡)」にある、次のような報告が紹介されていました。

車谷古墳群調査の副産物として、光明山寺参道跡の一部を検出した。古墳群中を通る尾根道は、かつて東大寺の別所として栄えた光明山寺の参道を基本的に踏襲している。戦後の筍栽培による地形の改変は著しいが、かつて石灯籠が累々と連なっていたと伝える信仰の道の一旦を垣間見ることができた。川原石を敷き詰めた参道脇からは、鍛治炉片や瓦片も出土しており、ここは信仰の道であると同時に物資の運搬や生活の道でもあった。古墳石室内からも中世土器が出土しており、参道脇に開口した石室が信仰の祠となっていた様子も想像できる。

容易に近づけない山中にあって、国見観音のあたりまで行けば、京都盆地から奈良盆地までが見渡せ、水が豊富にあり、耕作に適した平らな土地もあるとなれば、光明山寺跡のあたりは、非常に優れた天然の要害だったのかもしれません。今回、現地を案内していただいて、実際に光明山寺跡を目にし、その広大さと眺めの良さに驚かされました。行ってみないとわからないことは多いと、改めて感じました。

国見観音。残念ながら、お堂を覗き込んでもお姿は見えませんでした。

国見観音からは、生駒山から京都市街地まで見渡せました。

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