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2018年6月7日(木)第16回浄瑠璃寺行者まつり・講演「お薬師さんと十二神将」

  • 浄瑠璃寺行者まつりで開催された、東京国立博物館の浅見龍介先生によるご講演「お薬師さんと十二神将」を聴講してきました。

  • (2018年6月11日(月) 午前11時0分31秒 更新)
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スライドをテレビに映しながら、伝浄瑠璃寺十二神将の魅力を語る浅見龍介先生。

奇跡的に十二体揃って現代に伝わった十二神将

浄瑠璃寺十二神将は、現在静嘉堂文庫美術館に七体、東京国立博物館に五体所蔵されており、合わせて十二体すべてが、非常に保存状態が良いまま、現代に伝わっています。浅見先生によると、たとえば申神は、所有者を転々としたのち、2009年になり東京国立博物館の所蔵となったそうで、十二神将のうち数体は長らく東京在住の個人蔵となっていました。それにも関わらず、関東大震災、第二次世界大戦と、焼失の危機をくぐり抜けてきたことは、まさに「奇跡」と言えるかもしれません。

浄瑠璃寺十二神将が寺外に流出したのは、神仏分離令により廃仏毀釈の機運が吹き荒れた明治の混乱期でした。浅見先生がレジュメで引用した明治の新聞記事が、当時の様子をよく伝えていますので、そのまま転載します。この新聞記事は、2012年に神野祐太さんが発表した「東京国立博物館・静嘉堂文庫美術館分蔵十二神将像の伝来と作者」(東京国立博物館 MUSEUM 640号)でその存在が報告され、十二神将運慶作品説を補強するものとしても、たいへん注目を集めました。

運慶の十二神将

運慶の作として稀に世に伝わるものゝ中にて、彼の奈良の十二神将は殊に一般の美術家好古家をして垂涎瀬しむるものなるが、惜ひ哉久しく散逸して其数を具えざりしが所有者こそ区々なれ、此程に至り十二体とも悉く東京の中に集まりぬ。今其所在を挙ぐれば帝国博物館に四体(←これは誤り・この時期は二体だった)、岩崎弥之助男方に五体(←現在静嘉堂文庫美術館蔵)、益田孝氏方に二体、元工商会社長松尾儀助氏方に一体都合十二体なるが、抑も此の十二神将は原南都興福寺に在りしを(←根拠はない)、去る十七年中、佐野宮中顧問官が国宝保存の上に心を傾て彫刻家加納鉄哉翁に其意を授けて奈良地方へ古仏像の捜索に赴かしめたる折、弗と件の十二神将を見出しけり。面も太く朽損して勿体なくも俵の中に詰め込みありしが、其時は翁も固より運慶の作とは知らず兎も角も古代像には相違なければ若干を与へて其を買入れ帰京の後、塵を払ひ欠損を補ふて検め見れば正しく十二神将の中なる子、寅、辰、巳、午、申、亥七体とはなり。剰へ其腹内に「上坊別当執筆、大仏師運慶」の銘さへあることを発見したり。恁くて此の七体は暫く佐野子の許に秘蔵され居りしも其後岩崎男へ五体、益田氏へ一体、松尾氏へ一体と夫々の手に渡ることとなりしものとかや。扨又丑、卯、未、酉、戌の五体は是より先に奈良の植村某なる者同寺より買出し去ぬる。明治十年頃其を携えて上京し博物館に四体、益田氏に一体売渡したる次第なりと云へり。毎日新聞 明治35年(1902)11月22日/下線部は浅見先生が講演中に述べた注釈

新聞記事を一読するだけで、古仏を取り巻く当時の状況が、いかにでたらめであったかわかります。特に浅見先生は指摘されませんでしたが、「佐野宮中顧問官が国宝保存」に心を傾けて古仏像の捜索をさせたとある一方、それで見つかった古仏像がどうなったかといえば、当の佐野氏個人が秘蔵し、のちに売り払ってしまうあたりなど、私物化の横行に驚かされます。しかもこの新聞記事はそのことに全く疑問を抱いていない様子。当時はこれが普通だったのでしょう。

浅見先生によれば、佐野宮中顧問官が奈良に派遣した彫刻家加納鉄哉という人物がまたなかなかの曲者だったそうで、現在東京藝術大学所蔵の浄瑠璃寺吉祥天像厨子扉絵を流出させたのもこの人だったようです。また新聞記事には「面も太く朽損して勿体なくも俵の中に詰め込みありしが」とありますが、現在の十二神将の良好な保存状態からみてそのようなぞんざいな扱いを受けていたとは考えられず、流出を正当化するためにそのように吹聴していたのではないかとのこと。「若干を与へて其を買入れ」というあたり、不当に安く買い叩いた様子が伺えて、いかにも悪徳ブローカーといった風情です。

それより先に買い出した「植村某」という人物も、かなり怪しい人物で、名前を植村久道といい、明治8年(1875)から15回開催された奈良博覧会を運営する、奈良博覧会社を経営していました。当時は内国博覧会への出品物を博覧会社が返却しないということがしばしばあり、そうしたやり方で流出した古仏もいくつかあるといいます。記事では博物館に四体に売り渡したとありますが、実際に博物館に渡ったのは辰神と未神の二体で、あとの二体がこの時どこへ流れたのかは今もわからないそうです。

実は浄瑠璃寺の吉祥天像も一度奈良に持ち出され、寺から流出しかけたといいます。奈良で模像を作って模像の方を寺に戻す計画だったようですが、模像作りに時間がかかり、露見を恐れてオリジナルを戻さざるを得なくなったのだとか。さすがは吉祥天像とも言えるエピソードですが、浄瑠璃寺も一時無住となっていたと言われる明治時代、混乱に乗じて悪徳ブローカーがあちこちで暗躍し、数多くの貴重な文化財が危険にさらされたことがよくわかります。

さて、上新聞記事は「大仏師運慶」の銘があったと書かれていることが注目されたわけですが、その後2016年に、静嘉堂文庫美術館蔵の亥神の頭部から、安貞二年と読める墨書が発見されたことで、十二神将が運慶作である可能性はほぼなくなりました。

参考)静嘉堂文庫美術館「重要文化財「木造十二神将立像」の像内墨書について」

安貞2年(1228)は、運慶の没年である貞応2年(1223)の5年後であり、少なくとも亥神はこの頃に造立されたものとみられます。浅見先生によれば、十二支の順番から考えると亥神に墨書があるなら、他に墨書があるとすれば子神になるだろうとのことですが、子神も静嘉堂文庫美術館所蔵で、2015年に修理と調査が終了しています。あとは東京国立博物館蔵の五体のうちから、何らかの墨書が発見されれば、作者名や運慶の関与などについて何かわかるかもしれません。いつかまた新たな発見があることを期待しましょう。

浅見先生は途中で上着を脱いでらっしゃいました。普段はエアコンがなくても涼しい灌頂堂ですが、これだけ人が集まると蒸し暑かったことと思います。

興味深そうに聴き入る佐伯功勝住職。浅見先生が「(流出の経緯が経緯なので)返して欲しいと言われれるととてもつらい」とおっしゃるたびに、おかしそうに笑っておられました(笑)。

十二神将の魅力

講演では十二神将の来歴を振り返ったところで、スライドを見ながら、十二神将それぞれの見所について解説していただきました。浅見先生の一番のお気に入りは巳神だそうで、蛇が鎌首をもたげたような姿勢がすばらしく、板を幾重にも重ねて表現された髪の毛には、さらに切金で毛の流れが表され、その髪の毛の下にはきちんと耳も彫られているといいます。墨書が見つかった亥神の兜が脱げるというお話にも、その精巧な作りに驚かされました。しかし「髪の毛も一緒に外れるからちょっとおかしい」とは、浅見先生。

他にも寅神のブーツは虎の頭部が足に噛み付いている形をしていることなど、教えてもらわないと見過ごすような見所をたくさん教えていただきました。午神は頰に手を当てやる気がなさそうで薬師如来を守れそうもない、といった、ユーモラスな感想を交えた解説はとても楽しく、これは去年の運慶展の前にぜひお聴きしておきたかったところです。

またスライドでは、東京国立博物館にある中川寺十輪院伝来毘沙門天立像(重要文化財)も紹介されました。中川寺は明治に廃寺となり、今では跡形もありません。この像は寺外に流出したのち、日本画家の橋本関雪の所蔵を経て川端龍子氏の手に渡り、近年になって川端氏より東京国立博物館に寄贈されたとのことです。浅見先生は、明治期に浄瑠璃寺近隣から流出した文化財は多く、いずれ奈良国立博物館がそれらを紹介する特別展をやるのではないかとおっしゃっていました。このアイディアには深く頷く他ありません。

浄瑠璃寺の近隣では、中ノ川町の中川寺とは別に、東鳴川にも鳴川山善根寺というお寺がありました。興福寺一乗院の末寺で、創建は浄瑠璃寺よりも古かったと見られます。善根寺も明治に廃寺となりましたが、東鳴川のある家には「善根寺縁起」など古文書が伝わっていると言われます。なお岩船寺縁起は、この善根寺縁起を写したものとされています(大和古寺大観第七巻)。しかしながらこの古文書はおそらく未だ翻刻されたことがなく、内容がほとんど知られていません。もし奈良国立博物館でこのあたりにあったお寺をテーマに特別展が企画された折には、ぜひこちらの古文書なども調査していただいて、図録に翻刻を全文掲載していただければ、本当にありがたいです。心から期待したいと思います。

東京国立博物館所蔵の辰神・巳神・戌神。確かに巳神はやんちゃな表情といい、躍動感のあるポーズといい、とてもかっこいいです。

東博所蔵の十二神将は時折平常展に出陳されており、その場合は撮影自由となっています。ガラスケースに入っていた運慶展の方が近くで見ることができましたが、間にガラスがない状態で見る十二神将はまた格別です。人も少ないので、のんびりいつまでも見ていられます。後ろ姿もかっこいいのです。

中川寺十輪院伝来毘沙門天立像(重要文化財)。こちらも東博の平常展に出陳されていることがあります。玉眼が使用された初期の作例としても知られます。

中川寺十輪院伝来毘沙門天立像の体内から発見された絹本着色彩色画(重要文化財)です。毘沙門天立像と配色が一致し、現在28体しか残されていないとのことですが、本来は千体毘沙門天像として表された可能性があるといいます。毘沙門天立像には、この他に印仏(重要文化財)が収められていました。

十二神将像はどこにあったのか?

さて十二神将は浄瑠璃寺から流出する前、どこに置かれていたのでしょう。天正年間(1573〜1592)ごろ編纂された「浄瑠璃寺縁起」には次のように書かれています。

又中尊左脇有薬師宮殿、秘仏故自古無開帳、諺云、籠先小像於秘仏内、其秘仏五尺坐像(行基菩薩造)、宮殿外十二神将並鋒(十二神将、云運慶刻彫、後作加歟)

ここには「九体阿弥陀仏の左脇(向かって右)に薬師如来の厨子があり、秘仏のため古くから開帳されたことがなく、厨子の外には十二神将が並んでいる」と書かれています。注記に「十二神将は運慶が彫ったものでのちに作り加えたものか」とあり、この頃には十二神将が運慶作だと考えられていたこともわかります。

また宝永二年(1705)の「山城名勝志」巻第二十にも「本堂薬師并十二神(運慶作)九体弥陀像定朝作云々、故土人此寺ヲ九体仏ト呼フ」とあります。

「山城名勝志」巻第二十の浄瑠璃寺に関する記述。

これらの記述を素直に受け取れば、中尊の左脇(向かって右)に薬師如来像の厨子があり、その周りに十二神将が並んでいたと考えたくなりますが、浅見先生によれば、中尊左脇にはそれだけのものを置けるスペースがなく、これはあり得ないだろうとのことでした。

とすれば、薬師如来像が現在と同様三重塔の中に収められていた可能性が高くなります。ところが、浄瑠璃寺縁起、山城名勝志ともに、三重塔には釈迦坐像があったと書かれています。

東山三層塔、安釈尊坐像、西辺十一間大殿、九仏並耀光、二尊相向、二河白道有便、東而見西、地有直堂池有倒堂、西而看東、山有高塔、水有九輪、是以影仰覆世界

浄瑠璃寺縁起

池ノ東ニ宝塔アリ、釈迦ヲ安置ス

山城名勝志

これについて、浅見先生は、木津川市文化財保護課の方による「薬師如来像の薬壷が欠損していたために、三重塔の薬師如来像が釈迦如来像と誤まって認識されていたのではないか」という説を紹介し、その可能性もあると指摘されていました。ただし、三重塔にもやはり十分なスペースがなく、十二神将が置かれていたようには思われないとのことです。

正直を言えば、十分なスペースがないことを理由に、浄瑠璃寺縁起などの記述を否定するのは無理があるように思いました。個人的には、第84回 木津川市ふれあい文化講座での冨島義幸先生の講演「浄瑠璃寺の建築と庭園〜その信仰と美〜」でうかがった、三重塔にはもともと釈迦坐像があったとする説の方に、すっかり説得されてしまっています。

仮に薬師如来坐像を釈迦坐像と誤認していたのだとしても、今度は本堂にある「宮殿」がなんだったのかわかりません。中尊左脇のスペースについても、隙間なく並べれば薬師如来の厨子と十二神将を安置する空間は十分にありそうです。ただ浅見先生のお考えでは、江戸時代の一時期、緊急避難的に、所狭しと並べることはあったかもしれないが、作った当初からそのような扱いをするとは考えられないということでした。

順序で言えば、薬師如来が最初にあり、次に九体阿弥陀仏と現在の本堂が作られます。この時、薬師如来像は九体阿弥陀仏とともに、収まりの良い形で本堂に安置されたはずです。そのあとしばらくして一条大宮から三重塔が運ばれてきます。そして建暦二年(1212)、浄瑠璃寺流記事に「薬師御帳懸之(薬師如来に帳をかけた)」という記述があり、富島義幸先生によれば、これはこのとき薬師如来の厨子が作られたことも示唆しているといいます。なお同じ年に、吉祥天像も本堂に安置されています。

以前は薬師如来に帳がかけられた時に、十二神将も安置されたのではないかと思われていましたが、2016年の亥神墨書の発見によって、十二神将像は、これよりやや遅れて、安貞二年(1228)ごろに作られたとわかりました。

薬師如来像と十二神将像の関わりについては、ツイッターの雑談ではありますが、山本勉先生がこんな風におっしゃっています。

九体仏の中尊の両脇に薬師と吉祥天が対でまつられていたようですね。薬師は厨子を閉じていたようですから、十二神将は薬師の存在を示すために必要だったのかもしれません— 山本勉 (@eoruri_t) 2017年4月21日

このツイートから広げると、建暦二年(1212)に、秘仏として創建時からの本尊、薬師如来像を厨子に収めたが、そうすると薬師如来を教主とする東方浄瑠璃世界の浄瑠璃寺であるのに、九体阿弥陀仏に比べて薬師如来の存在感が薄くなってしまった、そこで薬師如来の存在を示すために、立派な十二神将像を作って厨子の周りに並べた、そんな想像がかきたてられます。

中尊左脇のスペースが狭いのは確かですが、時代が下るとは言え、例えば東寺薬師如来坐像の十二神将は台座を飾る装飾のような扱いです。浄瑠璃寺の十二神将像も仏像というよりは、薬師如来の荘厳となっていたのではないでしょうか。極彩色の十二神将が薬師如来の厨子をぎゅうぎゅうに取り囲む様は、さぞ絢爛豪華だったことだろうと思います。当時の浄瑠璃寺は九体阿弥陀仏も身体は金ピカ、螺髪は群青、本堂内は彩り鮮やかで今とは全く違う空間だったはずで、極彩色の十二神将の一団も違和感なく溶け込んだことでしょう。

また薬師如来に帳をかけたのと同じ建暦二年(1212)に、吉祥天が安置されていることも興味深いところです。中尊右脇(向かって左)に吉祥天の厨子(年一回正月にしか開帳しない秘仏)、中尊左脇(向かって右)に薬師如来の厨子(開帳されない寺の歴史を秘めた秘仏?)という配置がこのとき確立し、それがそのまま明治に入るまで受け継がれたと見る方に、個人的には説得力を感じています。

明治29年(1896)京都府古社寺調「明細帳」所収の浄瑠璃寺本堂図。

十二神将は難しいけれど?

講演後の質問時間に、とてもナイスな質問が出ました。それは「九体阿弥陀仏が修理に出て空いたスペースに、十二神将像がお帰りいただくことはできないか」というものです。浅見先生はちょっと困った様子でしたが、答えて曰く「十二神将像は東京国立博物館所蔵となっているので、浄瑠璃寺に貸すという形になる。すると展示環境の規定を満たす必要があり、ガラスケースなどがないと難しい」とのことでした。その際ぽろっと「四天王像は浄瑠璃寺からの寄託なのでそうした規定は適用されない」とおっしゃったので、すかさず四天王にお帰りいただくことは可能か聞いてみました。すると「うっかり口を滑らせましたが、例えば浄瑠璃寺にある像を含めて四天王像全てを東博で展示しても良い、といったお許しがあれば、あるいは...。その辺はご住職とご相談ということで」と、なんらか取引材料があれば、里帰りも実現可能と受け取れるお答え。

なかなか難しい面もあるかと思いますが、四天王像の里帰り、ぜひ少しの間でも実現してほしいと思います。期待しましょう!

※上記内容は、講演のレジュメや、レジュメに書き込んだメモを元に、講演内容を再構成したものです。浅見先生のご発言やお考えを必ずしも正確に反映したものではありませんので、ご注意ください。

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