奈良市東部、東山中には七基のおかげ燈籠があります。
中ノ川三社神社のおかげ灯籠。「天保二辛卯二月吉日 おかげ 村中世話人若連中」
東山中には計七基のおかげ燈籠がありますが、それらはすべて天保元年(文政十三年/1830年)のおかげ参りを記念するものです(「奈良市史 通史3」283-284ページ)。この年、東山中の村々が競い合うようにおかげ燈籠を造立したようです。
笠置街道本道に沿った大和国の村々で、次々とおかげ燈籠が造立されたのは、この道を通って伊勢へ向かう人々が多かったからでしょう。一方、当尾ではおかげ燈籠を一基もみかけません。また当尾には如意輪観音像も見られず、十九夜講が行われた様子はありません。江戸時代、東山中の村々と当尾はともに藤堂藩の城和領に属していましたが、それぞれの宗教文化は少し違っていたようです。
文政十三年に発生したおかげ参りでは、おかげ参りに続いて、「おかげ踊り」がおこったといいます。この踊りは、皆浴衣を着て、締め太鼓、三味線、胡弓、鈴、鐘などではやしたてる、たいそう賑やかなもので、村中のものがそろってハデな恰好をし、鳴り物入りで踊り回ったと伝えられています。
このとき、地域によっては「おかげ踊りに」ことよせて年貢減免などを要求する事態となったため、そうした事態を恐れた各地の領主は踊りを禁止しようとしました。しかし人々の熱狂を止めることは難しく、たとえば奈良の田原本町でも領主が踊りを厳しく禁圧しましたが、村民はこれに屈服せず、もしやるなら村民全員を処分せよといってかまわず踊り続けたとのことです。柳生でも、踊りを禁止することが難しかったので、おかげ踊りなので仕方ないが、ルールを守るようにと、領主がわざわざお触れを出したといいます(「奈良市史 通史3」283ページ)。
こぞっておかげ燈籠を造立したくらいですから、文政十三年/天保元年(1830年)の「おかげ参り」と「おかげ踊り」は、東山中の村々にとってもよほど印象深い出来事だったのでしょう。「おかげ踊り」はその後もたびたび踊られ、東山中や南山城では、明治・大正の天皇即位の際にも、「おかげ踊り」が盛大に踊られました(「東里村史」275ページ)。そのなごりは岩船の「おかげ踊り」にかすかに残されています。
中ノ川三社神社
天保二辛卯二月吉日 おかげ 村中世話人若連中
太神宮 天保元寅年九月吉日 おかけ 村中安全
北村戸隠神社
向かって右端の燈籠がおかげ燈籠です。
太神宮 天保元寅年三月吉日 おかけ 南之庄村中 世話人仁左衛門
おかげ燈籠は社の右側にあります。
戸隠神社の手前にある。「太神宮 文政十三寅年十一月吉日 おかけ 村中安全」
須川戸隠神社。明治時代に周辺地区にあった春日社などの神社が合祀されました。
上記のほか、法用町の八幡神社境内、平清水町の八幡神社境内、誓多林町の道ばたに、おかげ燈籠があります。
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