弥勒の辻から、東へ進み、川沿いに狭川方面へ下りると奈良市北村に入ります。北村の観音堂にも石仏などがあります。
北村観音堂。元は常福寺があった場所で現在は集会所と観音堂が建っています。石造物は観音堂の右手裏側と戸隠神社への道沿いにあります。
科研研究助成事業データベースに興味深い研究が紹介されていました。
十九夜講とは、月の十九日の夜に女性(おもに主婦)が当番の家や地域の公民館に集まって、如意輪観音の掛輔に念仏を唱えて安産や健康を祈る民俗行事である。これは一般に近世期に始まったとされ、如意輪観音の彫られた十九夜供養碑が建立されるのが通例である。それゆえこの行事は、ある種の<宗教景観>をつくりだす要因ともなる。講の行事を担う社会集団の規模は、近世の藩制村の構成要素としての、いわゆる村組レヴェルの小地域集団であることが多く、藩制村の枠を超えるケースはほとんどない。
十九夜講は関東から東北にかけて盛んであるが、西日本では大和高原の北部地域(「東山中」と呼ばれる地域)に集中的にみられることが、これまでの研究からわかっている。
それゆえ全国的にみると、東山中は十九夜講の分布における待異な飛び地をなしているといえる。
この研究では、(1)<制度>としての十九夜講が、どの村落からいかなるかたちで空間的に伝播していったのか、(2)十九夜講が伝播した各村落において、いかなるレベルの社会集団が十九夜講の行事を担い行い、かつ十九夜供養碑の宗教景観をつくりだしたのかを、明らかにすることを目的とした。
2年間の研究の結果、(1)については、十九夜講が現在の奈良市忍辱山地区からおおよそ同心円状に伝播してゆく過程が明らかになってきた。(2)については、十九夜講行事を担う社会集団は近世の藩制村レベルではなく、それを構成する小地域集団(村組や近隣組など)であるケースが多いことがわかっててきた。そのような小地域集団が、十九夜講伝播の担い手となり、十九夜供養碑の宗教景観をつくりだしたと考えられる。
この地域の十九夜講は、十九夜講の中心地である関東から離れているにも関わらず、飛び地のように忍辱山地区から広がったものだそうです。なぜ西日本ではこのあたりにのみ集中しているのか不思議です。
笠石仏と如意輪観音像。
石造物の解説は「奈良県史 第七巻 石造美術」と「奈良市石造遺物調査報告書 調書編」を参照しました。
笠石仏。南北朝後期の造立とみられる。
如意輪観音像。「文禄四年 十月十五日 <法名16人>」1595年のもの。
「(左)宝暦申戌年 (表)奉待十九夜為二世安楽 (右)八月吉日 おいよ おくら おやつ おうま おさよ おさん おさる おつき おせつ」
やさしく微笑む如意輪観音様。
何か判らない石造物。
江戸時代の役行者像と自然石不動・蔵王講碑。
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