弥勒の辻・弥勒磨崖仏は笠置寺の弥勒磨崖仏を模したものと言われています。
焼失した笠置寺の弥勒磨崖仏と同じく如来形です。
かつて弥勒の辻は、西のわらい仏から上ってきた道、東の笠置へ向かう道、北へ岩船寺の裏手を超えていく道、南の法用へ向かう道、これら四つの道が交わる場所に位置していました。その昔、「足の神さん」と言われ、道を行く旅人が健脚を祈ったとも伝えられています。そのころ弥勒様の前には、たくさんのま新しいわらじや杖などが供えられていたそうです。(西村正子編「加茂の昔話」ふるさと案内・かも p52)
ただ、その割には磨崖仏の足の部分の線彫りがはっきりと残っているので、この話が本当なのかについては疑問を感じていました。もし足の神様として信仰されていたとすると、足の部分が多くの人に触られて摩耗が進んでいる可能性が高いからです。
しかし、昭和18(1943)年発刊の西村貞「奈良の石仏」360頁に「尊像のかたはらにある雑木の類には、草鞋をくくりつけて賽してあるのをみうけるが、南田原の磨崖弥陀像にみるがごとく、これは云ふ迄もなく健脚を祈願するこころである。」とありました。昭和初期まではそうした風習があったのかもしれません。
この明治時代の地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。現在の車道はなく、同じ四つ辻でも、道が少しちがっていたようです。
弥勒磨崖仏の左右に銘文があり、右に「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」、左に「文永十一年甲戌二月五日為慈父上生永清造之????大工末行」(1274年)と刻まれているようです(山本寛二郎「南山城の石仏 上」p31)。
「永清」という人物が、亡くなった父親が弥勒菩薩のいるという兜率天へ生まれ変わる(上生)ことを願って、「石大工
わらい仏から上ってくる道が車道と合流するあたりに位置しています。
頭部のあたりが風化してわかりにくくなっていますが、まだかろうじてお姿が見えます(2015年1月撮影)。
© 弥勒の道プロジェクト
奈良と京都の県境を成す古道〜般若寺・浄瑠璃寺・当尾石仏の里・岩船寺・笠置寺を結ぶ道〜の再発見を通じて、奈良と加茂〜笠置の歴史をつなぎなおす「弥勒の道プロジェクト」。このプロジェクトは、誰でも気軽に参加できるプロジェクトです。参加方法は、古道の存在とその歴史的価値をあなたのまわりの人々に伝えること、古道周辺を探検してみること、それだけです!