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古道をハイキングコースにしよう!

古道復活の意義

地域文化がよりよくわかる!

古道を復活させると、地域文化の裏にある人々の交流に想像が膨らみます!

なぜ当尾には鎌倉時代の立派な石仏が多いの?
南都焼き討ちのあと、鎌倉時代、奈良の寺社復興のため集められた石大工が、奈良周辺で活躍したから。石大工は遠く中国からも招かれた。「弥勒の辻弥勒磨崖仏」と「わらい仏」は中国、南宋は寧波出身の石大工、伊行末の孫(?)、猪末行の作。彼らも作品制作のため、笠置街道を頻繁に行き来したことだろう。
どうして唐臼の壷、阿弥陀・地蔵磨崖仏の地蔵磨崖仏は向こうむいてるの?
阿弥陀像は西面に彫られており、地蔵磨崖仏は南面に彫られている。現在のハイキング道からは「向こう側」と思える南面はかつての主要道〜笠置街道〜に面しており、彫られた当時は「向こう側」ではなかった。
弥勒の辻にはどうして笠置寺の弥勒磨崖仏を模した弥勒像が彫られているの?
弥勒の辻が、奈良から弥勒信仰の聖地、笠置寺へつづく道の途中、一番高い峠まであと少しの地点だったから。多くの旅人がここで笠置寺の弥勒磨崖仏を思い、期待に胸を膨らませたことだろう。
どうして岩船に「おかげ踊り」が残っているの?
江戸時代「おかげ参り(伊勢参り)」が流行した際、「おかげ踊り」は各地で熱狂的に踊られた。岩船寺の裏手にある弥勒の辻は、笠置を経て伊勢へ向かう道〜笠置街道〜と岩船寺からの道が交わる場所となっている。おかげ参りの人々もたくさん通ったはずだ。感化される村人も多かったにちがいない。

弥勒の辻、弥勒磨崖仏。中国からやってきた石大工、伊行末の孫、伊末行の作。故郷を遠くはなれこの地にやってきた石大工の一族はどんな思いで石仏を彫ったのでしょうか。

意外なところに建つ伊勢への道標。伊奈良市緑ヶ丘浄水場の西端にあり、伊勢まで二十七里と書かれています。この道標が指す「伊賀伊勢道」は、ここから梅谷に下り高田を経て木津川沿いに伊賀へ向かう道のことで、尾根筋を登る県境になっている道は「笠置街道」と呼ばれていたようです。しかしその笠置街道も結局笠置で伊賀伊勢道と合流し、やはり伊勢へと向かいます。尾根を登りきったあたりにある牛塚の傍らに伊勢参りの記念碑があることから、県境になっている道を通って伊勢へ向かった人々も多かったことがわかります。

観光資源が有機的につながる!

道沿いのお寺をコンプリートしたくなる!
般若寺←→浄瑠璃寺←→岩船寺←→笠置寺
実範上人の足跡をたどりたくなる!
忍辱山円成寺→中川寺跡・実範上人御廟塔→唐招提寺→東大寺戒壇院
中川寺つながりで訪ね歩きたくなる!
中川寺=真言声明の源流→声明を聴いてみよう!
中川寺は、文明13年(1481年)、応仁の乱後の混乱の中、寺内の争いによって、一山ことごとく焼亡してしまう。このとき、どういう経緯か、事前に薬師如来坐像が、中川寺と縁の深かった鹿背山鹿山寺に移されたらしく、それが現在鹿背山西念寺の薬師堂にお祀りされている。→西念寺行ってみよう! ついでに山城城跡を見て来よう!
貞慶上人の足跡をたどりたくなる!
興福寺→古道→弥勒信仰の聖地・笠置寺→観音霊場・海住山寺
石大工一族の行く末が気になってしまう!
  1. 中国寧波からやってきた「伊行末」:東大寺南大門石獅子・東大寺法華堂(三月堂)石燈籠・般若寺十三重石塔
  2. 息子「伊行吉」:般若寺笠塔婆
  3. 孫「猪末行(いのすえゆき)」:弥勒の辻弥勒磨崖仏・わらい仏
〈出所:伊派 (伊行末系) 石大工の作品

古道に秘められた数々の物語が観光資源を有機的につなげます!
般若寺など奈良市北部地域への観光客誘導にも有効でしょう☆

実範上人御廟塔。中川寺が廃寺となった中ノ川では、明治期の廃仏毀釈の爪痕が深く、黒田曻義 著「当尾と柳生の寺々 : 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」によるとこの五輪塔も売り払われそうになったとか。

西念寺の秘仏、薬師如来坐像(非公開)。この薬師如来坐像は、応仁の乱の混乱の中、中川寺が焼亡する直前まで中川寺にあったと伝えられています。

ハイキングコースとしての、古道の魅力

歴史を感じさせる!

これほど長く使われ、さまざまな文化を運んだ道を、私たちの世代で完全に失ってしまうのは、本当にもったいないと思います。

実質的な通行妨害がつづいていることもあり、今はほとんど忘れ去られ、失われかけている古道ですが、それでもほんの少し前までまだ道として使われ続けていた痕跡があちこちにあります。今ならまだ復活させられます。ぜひハイキングコースとして復活させましょう! きちんと整備すればきっとステキな道となるにちがいありません。

謎の護摩石。古道から梅谷の尾根筋を尾根の先端、梅谷三角点あたりまで歩くと、木々の間に打ち捨てられています。護摩石と呼ばれるわりに、焦げ痕はなく、四隅のほぞ穴に支柱を差して宝塔を立てた基壇と推測されています。般若寺のご住職は、梅谷の水源地を見下ろす位置にあることから、雨乞いの儀式などをしたのではないかとおっしゃっていました。

中川寺跡北側には中川寺の池の跡から流れ出た川に、崩れた宝塔が散らばっています。かつてこのあたりに中川寺が存在したことを感じさせます。川には石橋のようなものがかかっています。

中川寺跡の少し東側に、今はすっかり埋まってしまった排水溝の跡と、排水溝に渡された石橋があります。往来が絶えなかった頃は、この道もよく整備され、山肌から染み出す水で道がぬかるむこともなかったのでしょう。

浄瑠璃寺南側へつながる道の直前で、この古道は薮に覆われてしまいます。現在は草刈りが行われ、道の入口がわかるようになっています! この写真右側の車の退避スペースのようになっているところが道の入り口です。

観光のバリエーションが増える!

古道がハイキングコースとして復活したなら、観光のバリエーションも増えるでしょう。JR加茂駅の交通の便はお世辞にもよいとは言えません。もし、スタートとゴールのどちらかが奈良市内だったら、交通の便も良くなり、見て回れる場所も増えます。

たとえば、バスで岩船寺まで行き、石仏を巡ったあと、浄瑠璃寺を経て、古道を通り、般若寺に下るコースはどうでしょうか。浄瑠璃寺からはほぼ下り坂となるので、歩いてもそれほどたいへんではありません。浄瑠璃寺から東大寺まで歩いてみたところ(GPSによる計測で)10キロほどでしたから、岩船寺から浄瑠璃寺を経て近鉄奈良駅まで歩いてもおそらく15キロ程度でしょう。

実際、堀辰雄が、昭和18年ごろ、この道をまさにハイキングコースとして、彼の妻とともに歩いています。昭和18年(1943年)6月に「大和路・信濃路」の「浄瑠璃寺」として「婦人公論」に寄せたエッセイ「浄瑠璃寺の春」には、次のような記述があります。

「奈良へ()いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、()っとたどりついた浄瑠璃寺の…」

「その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。」

つまり、この日堀辰雄夫妻は、奈良から浄瑠璃寺までこの道を上って帰って来たようです。奈良から「二時間あまり」、すなわち10キロ程度で、浄瑠璃寺にたどりつくには、この道以外考えられません。それにしても、浄瑠璃寺までの山道を往復し、さらに東大寺三月堂に立ち寄って、春日大社の森を散歩した、ということは、なかなか本格的なハイキングですね。見どころもたっぷりです。

また、般若寺のご住職も、昔は自転車で(!)、般若寺から浄瑠璃寺まで、この道を行き来していたそうです。「昔はまさにハイキングコースだったんですよ」とおっしゃっていました。

水呑み地蔵。浄瑠璃寺の南側には、鎌倉時代、赤門と呼ばれた浄瑠璃寺南大門がありました。そのそばにあった地蔵堂に祀られていたのがこのお地蔵様です。康永二年(1343年)、この南大門から火災が起こり、浄瑠璃寺の多くの建物が焼け落ちてしまいます。このとき地蔵堂も焼け落ち、焼け仏となったまま放置されてきたのかもしれません。すぐ脇から今も水がわき出しています。江戸時代初期の剣客、荒木又右衛門がここで休み水を飲み、それから水呑み地蔵と呼ばれるようになった、とも伝えられています。このわき水が、再び(ハイキングを楽しむ)旅人ののどを潤す日は来るでしょうか。

奥に、荷役の牛を供養した牛塚石塔、伊勢参りの記念碑。手前には、首を欠損した石龕仏。80年代ごろまでは首があったとのことです。ここ数十年の間に何者かに持ち去られたようです。牛塚の十三重塔は笠石が一部失われています。こちらは明治一時売られてしまった結果だそうです。あとで戻ってきたのだとか。この尾根筋から北側を望むと加茂盆地が見渡せます。景色がよく、記念碑を建てたくなるのもうなずけますね。浄瑠璃寺からこちらに降りてきたなら、あとは尾根伝いにぷらぷら歩けば、般若寺はもうすぐそこです。般若寺からは、いっそバスを使わず、最近かわいいお店が増えてきた近鉄奈良駅の北側界隈、あるいは、東大寺境内を通って、駅まで歩いてしまうのもよいでしょう。

古道の現状とこれから

ボランティアの手で道の復興が進んでいます!

くわしくは下記事をご覧ください。

次は地図と道標の整備と笠置方面への延伸が課題

プロジェクト参加者募集中! 奈良坂から中ノ川を経て浄瑠璃寺に至る中川越古道だけでなく、狭川から広岡を抜けて笠置に至る道についても、地図や道標の整備をすすめていきたいです。整備の継続も課題です。ぜひ Twitter もしくは Facebook をフォローしてください! 弥勒の道プロジェクトに参加するのに、名前などを登録する必要はありません。誰かの呼びかけで勝手に集まるスタイルですので、お気軽に〜。

関連情報

古道の復活をよびかけよう!

奈良市と木津川市が協力して地権者と交渉し、ハイキングコースなどの形で古道を再整備するようよびかけましょう! 人の往来が復活すれば、道周辺の地域が活性化するだけでなく、不法投棄や犬の放し飼いなど迷惑行為の抑止力にもなるはずです。

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