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2014年10月16日(木)岩船のおかげ踊り

  • 毎年10月16日午後3時ごろから15分ほど踊られる岩船の「おかげ踊り」を見てきま­した。

  • (2018年10月16日(火) 午後3時16分5秒 更新)
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岩船のおかげ踊り

地元の人たちによって守り伝えられているおかげ踊り。

江戸時代のおかげ参りの熱狂を今に伝える岩船のおかげ踊り

毎年、伊勢神宮で神嘗祭が行われる10月16日に、午後3時から15分ほど踊られるとのことですが、3時少し前に岩船寺に到着したときには、もうおかげ踊りが始まっていました。踊りが終わるやいなや、稲刈りがあるからと、見学していた農家の女性が忙しそうに帰って行きました。

おかげ踊りは、江戸時代に流行したお伊勢参り(=お陰参り)のなごりだそうです。明治期の神仏分離で伊勢神宮の性格が変えられたため、お陰参りは明治期に廃れましたが、おかげ踊りは何かめでたいことがある度、南山城一帯で盛大に踊られていたとのこと。岩船のおかげ踊りは、大正、昭和の天皇即位の際、村で大いに盛り上がって踊られた記憶をたよりに、昭和42年に復活しました。

大正天皇即位式のとき、南山城の村々が熱狂したおかげ踊りとは!

明治元年は1872年、大正元年は1912年、昭和42年は1967年、ということは、昭和42年の段階でさすがに明治天皇即位式のとき踊られたおかげ踊り(95年前)を覚えている人はいなかったでしょうが、大正天皇即位式のころ(55年前)のことなら、まだ鮮明に覚えているというお年寄りはたくさんいたことでしょう。若かりし日に体験した楽しい思い出として、強烈な印象を残したできごとなら、なおさらです。

「おかげ踊り」に関連して、現在は奈良市の一部となっている旧東里村が編纂した東里村史(昭和32年8月31日発行)第十章「民俗」に興味深い記述があります。この章の始めに「大正四年に、その当時須川尋常高等小学校長であった農沢松吉先生他数氏の記述による、人情風俗に関する綿密な調査資料が現存するので、原文通り茲(ここ)に収録した。」とあり、この章には、当尾のすぐ南東、須川地区の当時の小学校長が近隣の風俗をまとめたものが、そのまま転載されています。

たいへんおもしろいので、少し長いですが、「おかげ踊り」に関連するところを引用します(275p-277p)。

特殊な出来事

い、明治天皇即位御大礼

明治初年 明治天皇御即位式を挙げさせ給いし時大々的の奉祝をなす。即ち村民老若男女を問わず何れも晴れの衣裳を着け頭には花笠を被り、手には扇又は御幣を持ちて十日間位毎日酒を飲み村内を踊るのみならず近隣の村落に踊り歩きたるものにして、或る字に御祓いが降ったといえば各々その家に祝儀物を持ち行き祝を申し述べ、然る後団体にてその字に踊り込みて酒肴の供応を受くる習しという、いわゆるオ陰とは是なり、当時の人々には深き印象を与へたるものらしく常に話となれるものなり。

(略)

へ、大正天皇、今上陛下御即位式を挙げさせ給ひし当時の模様

十一月十日天皇陛下京都大極殿にて御即位式を行わせらるに当り吾が村に於いては、当日午後二時より小学校に於いて学校児童、父兄、在郷軍人、青年団員、其外一般村民諸共に天皇陛下御即位礼拝賀式を行い、午後三時三十分内閣総理大臣紫宸殿に於て万才奉唱の時を期し村長発声にて一同万歳を三唱して式終れり。

十一月十六日大饗第一日には午後一時より学校に於いては奉祝の旗行列をなす、先ず氏神に参拝し君が代合唱の後山登りをし、山頂に至るや奉祝唱歌を奉し万才三唱の後再び氏神に詣で、こゝに児童に福引を与え万才歌喜の裡に目出度解散をしたりしが、朝来より申し分なき小春日和にて折から村民の奉祝大酒宴の氏神境内にて催さるゝや、これ又甚だ盛大にして平素寂しき吾が村も今日は甚だ賑わってものなりき。

其後、大柳生村、東里村等より、夜間仮装行列をして来るものあり。山城当尾村より昼間お陰踊り団体の来り来る等のこともあり、本村に於いても十月(引用者註:十一月の誤りか?)二十七日老若男女子供に至る迄六百有余名の奉祝団体を組織し、三日間他郡へ所謂お陰踊りに廻りたるものにして、その有様を記さんに先ず老人連の中には昔のお陰踊りの上手なるものを師として二、三回稽古をなし、全部その踊り方を習得し、何れも仮装華々しき装束をなし、各垣内に一団体を作り、これには各々御輿(華々しく飾りたるもの)ありて子供二、三人之に乗りて太鼓を打ちならし調子を合し、お陰音頭或いは唱歌或いは軍歌の合唱勇ましく各村に練り歩き、各所に於いてお陰踊りをなしたるものにして、酒肴弁当の類は或いは牛車に引かすあり、車に積むあり、実に村内総出にてほとんど残りたるものはなく、村中空虚無人の有様というべく、村民に忘るべからざる深き印象を与えたるものというべし、又その協同一致の点に於いては「よくもかくは出来たる哉」という位のものなり。爾来村内に於ける宴会その他余興もよくこの踊り行われ子供に至る迄このお陰音頭なるものを克く口にするに至れり。

「おかげおどりはよ ヨイコラセ 誰が来て おうせた ヨーイコラセ 伊勢のよ 大神宮がよいしょ こりゃ来ておうせた サアサヤートコセイノヨーイヤナ アレハノサッ コレハノサッサ ササナンデモセー」

「おまへ百までよ ヨイコラセ わしゃ九十九まで ヨーイコラセ ともによしらがの よいしょ こりゃ生えるまで サアサヤートコセイノヨーイヤナ アレハノサッ コレハノサッサ ササナンデモセー」

大正のおかげ踊りのときも古老に踊り方を教わったようです。それにしてもなんという熱狂でしょう。忘れ難いほど楽しかったことが文章から伝わってきます。大正天皇の即位の礼は大正4年に行われていますから、この調査報告はまさに即位の礼の直後に書かれたものと思われます。それだけに記録が詳細で、調査報告からは当時の興奮がよく伝わってきます。当尾と奈良県側の村々との間に親密な交流があったこともうかがえます。

おそらく岩船も須川と似たような状況だったのでしょう。おかげ踊りで唄われる歌詞もよく似ています。

岩船のおかげ踊りの歌詞。

岩船のおかげ踊りの歌詞。帰りがけ別の方が歌詞の書かれた紙を借りて撮影してらっしゃったのでついでに撮影させていただきました。(ただ今日は朝から鼻水が出てしんどかったので、なんとなくぼーっとしていたため、ろくに断りもせずお礼もしなかった気がします。。。歌い手の方にも撮影してらっしゃったかにも失礼なことをしました。申し訳ないです。。。)

おかげ踊り

ァァ ヨイサァァ おかげ踊りわァよ ヨイセ コラセ
ァァ 誰が来てェェ おォォせた ァァヨイセ コレワイセ
ァァ伊勢ェの 大神宮さんが ヨイショ コラ
来ておォせェた ァァサッサァヤットコ セノヨオオィヤナ
アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデェモセ

ァァ ヨイサァァ おかげ踊りわァよ ヨイセ コラセ
ァァ岩船のョォ 里ォォで ァァヨイセ コレワイセ
古いョォォ 歴史を ヨイショ コラ
受継ぎて ァァサッサァヤットコ セノヨオオィヤナ
アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデェモセ

ァァ ヨイサァァ さした盃わ ヨイセ コラセ
ァァ中を見てェェ のまれァァ ァァヨイセ コレワイセ
中わよォ 鶴亀 ヨイショ コラ
五葉のォォ松 ァァサッサァヤットコ セノヨオオィヤナ
アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデェモセ

ァァ ヨイサァァ 伊勢わ津でもつよ ヨイセ コラセ
ァァ津わ 伊勢でもつ ァァヨイセ コレワイセ
尾張ョォォ 名古屋わ ヨイショ コラ
城でェェもつ ァァサッサァヤットコ セノヨオオィヤナ
アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデェモセ

ァァ ヨイサァァ お前百まで ヨイセ コラセ
ァァわしゃ 九十九まで ァァヨイセ コレワイセ
共によォォ 白髪の ヨイショ コラ
はえるまで ァァサッサァヤットコ セノヨオオィヤナ
アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデェモセ

ァァ ヨイサァァ 誰もどなたも ヨイセ コラセ
ァァお名残りィィ おしや ァァヨイセ コレワイセ
又のョォォ ご縁で ヨイショ コラ
さよォうなら ァァサッサァヤットコ セノヨオオィヤナ
アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデェモセ

ほぼ伊勢音頭?

歌詞を見ていて気づくのは、間の手や歌詞の一部がほぼ伊勢音頭だということです。「アレワイセ=あれは伊勢」、「コレハイセ=これは伊勢」、「ナンデモセ=なんでも伊勢」でしょうか? それがいつしか「アレワイサッサ」になったのかなという気もします。

さてここで各地の伊勢音頭を聴いてみましょう。


伊勢音頭 「正調伊勢音頭」

いかにも正調ってかんじですね。

これが四日市あたりになるとこうなります。


宮参り伊勢音頭

間の手は同じですね。海の男の歌。なにか熱い!

こちらは奈良広陵町の戸立祭で、だんじりを引く青年団によって唄われる伊勢音頭。お祭りが盛り上がっていて、何を唄っているのかよく聴き取れませんが、「コレワイセ〜」という間の手は聴こえました。往時のおかげ踊りもこんな熱気の中唄われたのかもしれません。


2013年 奈良広陵町 箸尾地区だんじり④  宮入 萱野

さらに西、伊予の西条でも、お祭りの際、男たちによって伊勢音頭がとても勇壮に唄われるようです。歌自体は岩船で唄われるものとよく似ていると思います。


西条まつりばやし(伊勢音頭)


出発前の伊勢音頭

このノリは! これなら十日間でも飲めそうです(笑)。西条では伊勢音頭がたいへん盛んで地区ごとに自慢ののどを競い合うフェスティバルなんかもあるらしいです。

熊本にはこんな伊勢音頭も。


ザ・わらべ ~ 伊勢音頭 ~

伊勢の古市では、遊女達による伊勢音頭の総踊りがたいへんな人気で、亀の子踊りと呼ばれていたそうですが、こんなかんじだったんでしょうか。

ともあれ、岩船のおかげ踊りも、かつてはさぞ賑やかなものだったのだろうと想像します。時の流れを感じます。。。

Map.

岩船寺の山門へ上がる階段のすぐ手前、右側にある階段を上ると白山神社があります。

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