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2016年11月26日(土)第84回 木津川市ふれあい文化講座

  • 冨島義幸先生の講演「浄瑠璃寺の建築と庭園〜その信仰と美〜」があると聞いて、聴講してきました。

  • (2016年12月8日(木) 午後10時0分59秒 更新)
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明治29年(1896)京都府古社寺調「明細帳」所収の浄瑠璃寺本堂図。中尊の左脇(向かって右)に「薬師」とあります。

三重塔本尊は本来薬師如来じゃなかった!?

今回の講演で一番驚かされたのが浄瑠璃寺三重塔本尊についてのお話でした。現在浄瑠璃寺三重塔には薬師如来坐像が安置されていますが、もともとはそうではなかった可能性が高いのだそうです。既に知られている文献からも、三重塔の安置仏が幾度か入れ替わっていることが確認できるといいます。

三重塔安置仏に触れた最も古い文献は、天正年間(1573〜92)に乗秀が編纂した「浄瑠璃寺縁起」です。その末尾近くに次のような記述があります。

賛伝、(中略)東山三層塔、安釈尊坐像、西辺十一間大殿、九仏並耀光、二尊相向、二河白道有便、東而見西、地有直堂池有倒堂、西而看東、山有高塔、水有九輪、是以影仰覆世界、

この記述から、「浄瑠璃寺縁起」がまとめられたころ、三重塔には釈迦如来坐像が安置されていたとわかります。一方薬師如来像は、「浄瑠璃寺縁起」によると、本堂の中尊左脇(向かって右)に置かれていたようです。

本尊者弥陀薬師両像也、(中略)又中尊左脇有薬師宮殿、秘仏故自古無開帳、(中略)其秘仏五尺坐像(行基菩薩造)、宮殿外十二神並立鋒(十二神、云運慶刻彫、後作加歟)

「薬師宮殿」とあるのは、薬師如来坐像が厨子に納められていたことを意味しているとのこと。また秘仏のため古くから開帳されることがなかったとも書かれています。浄瑠璃寺薬師如来坐像は、様式などから浄瑠璃寺が創建された11世紀に遡ると見られていますが、現在も朱衣金体の色が鮮やかに残っています。これは長らく秘仏として、ほとんど開帳されることがなかったおかげかもしれません。

加えて、時代が下った天保十一年(1840)以降に成立した「当尾郷大庄屋手控/当尾郷内寺社明細記写」でも、やはり薬師は秘仏として本堂に安置され、三重塔の本尊は釈迦であると書かれているといいます。

ところが明治二十一年(1888)の「宝物取調目録」では、三重塔には大日如来があると記録されているのです。一方で明治二十九年(1896)の「明細帳」にある浄瑠璃寺伽藍図(冒頭の写真)においても、薬師如来が本堂の中尊左脇に書かれており、少なくともこのころはまだ三重塔の本尊が薬師如来ではなかったとみられます。

こうなると、なるほど三重塔にはもともと釈迦如来坐像があったのか、と思いたくなりますが、冨島先生はここからさらに詳細な検討を加えて行きます。

まずは現在三重塔に安置されている薬師如来像が、元はどこに置かれていたのかを明らかにするために、冨島先生が注目したのが、かつて薬師如来像が納められていた厨子でした。この厨子は現在も浄瑠璃寺本堂にあり、南側の入口を入ってすぐ、九体阿弥陀仏左側の通路奥、持国天像と増長天像の後ろの暗がりに、ひっそりと置かれています。

お堂では暗くてよく見えませんが、この厨子は扉部分の漆がそれほど劣化しておらず、あまり古いものには見えないとのこと。しかし、よく観察して見ると、扉から上の部分の漆は劣化が激しく、また上部の様式は鎌倉初期を下らないとされる長久寺厨子によく似ているといいます。また上部と下部で柱の位置がずれており、下部は近世の修理による後補とみられるそうです。

厨子については「浄瑠璃寺流記事」に関連する記述があり、建暦二年(1212)の出来事として次のように書かれています。

薬師御帳懸之□、千智房奉施入了、但金物等公家沙汰也

つまり、このとき御帳と同時に厨子も作られたと考えられます(あるいはそれ以前から厨子があった可能性も)。ということは、薬師如来坐像は、このころから秘仏として、ずっと本堂に置かれていたと見るのが自然に思えます。

しかし冨島先生は念には念をいれるのでした。実は昭和初期まで、薬師如来坐像は厨子の中に入れられた上で、三重塔に安置されていたそうです。浄瑠璃寺の三重塔初重には心柱も四天柱もないため内部空間が広く、厨子に入った状態でも、ぎりぎり三重塔に収めることができたのです。

そうなると、昭和初期と同様、三重塔が移築された当初から、薬師如来坐像が三重塔に安置されていた可能性が出てきます。ところが、三重塔初重の天井をよく見ると、瓔珞(ようらく/仏を荘厳する装飾金具)をぶら下げたと思しき釘穴が並んでいるのが確認できたそうです。もし三重塔初重天井に瓔珞が飾られていたとすると、それが短い瓔珞であっても、厨子の屋根と接触してしまいます。瓔珞で荘厳した状態で、薬師如来坐像を収めた厨子を三重塔に置くのは無理があります。

瓔珞の釘穴がいつごろつけられたのかはわからないとのことですが、このことは現在三重塔に安置されている薬師如来坐像が、九体阿弥陀仏が造立された後も、変わらず本堂に安置されていたことの傍証となりそうです。

では、三重塔にはもともと何が祀られていたのでしょうか。ここで冨島先生が注目するのが、三重塔の四方にある扉絵です。この扉絵は従来、法華曼荼羅とする説が有力でしたが、冨島先生は釈迦の生涯を描いた釈迦八相図である可能性が高いと結論づけました。わずかに残る絵の断片が、釈迦八相図に描かれる事物の一部に一致しているからです。

冨島先生によれば、南が釈迦の受胎と誕生、西が試芸から出城、北が苦行から成道、東が説法から涅槃、と南から時計回りに、扉ごとに八つの場面が描かれているとのことです。冨島先生は割と淡々とお話しになる方ですが、スライドで写真を紹介しているときには、研究の楽しさや発見の興奮が言葉のはしばしににじみ出て、こちらもわくわくさせられました。

とりわけ北面東扉に描かれた場面が、釈迦八相図にある舎利弗と牢度叉の闘いを描いていると推論する過程は、さながらミステリードラマの謎解き場面を見ているかのようでした。この扉絵では下部に何らかの動物が水辺にいることがかろうじて見て取れるのですが、過去に赤外線撮影された写真や同時代の釈迦八相図などをヒントに、この扉絵が、牢度叉が呪術によって作り出した大水を、舎利弗が白象に化けて飲み干す場面にちがいないと、結論づけられていきます。またその少し上には槍で突かれる夜叉鬼が描かれており、これまた夜叉鬼に化けた牢度叉を毘沙門天に化けた舎利弗がやっつける場面とのことで、双方とも釈迦八相図によく描かれるテーマとのことでした。

こうした三重塔は文献上他にも見られ、浄瑠璃寺と同じく九体阿弥陀堂があったことで知られる福勝院では、やはり三重塔が西の九体阿弥陀堂に対面する形で東に建てられ、四面扉に釈迦八相図が描かれていたと伝わっています。そして、福勝院三重塔に安置されていたのは釈迦・多宝の二仏でした。この二仏は法華信仰に基づくものだそうです。

一方「浄瑠璃寺流記事」紙背文書には、法華法勤行の記録が残されており、冨島先生はこの法華法は三重塔で行われていたと見ています。また、これら記録から、浄瑠璃寺では法華法に加え、釈迦法と地蔵法が修されていたこともわかります。これは浄瑠璃寺三重塔に、釈迦如来坐像と地蔵菩薩像が安置されていたことを示唆しています。大きさから考えて、この地蔵菩薩像は現在東京国立博物館に寄託されている像ではないかとのことです。

三重塔初重内部。心柱も四天柱もなく広々としています。内壁や柱に鮮やかな彩色が残っています。壁には十六羅漢図が描かれています。

冨島先生お気に入りの鳥。かわいらしく美しい鳥です。

東面北扉の扉絵。僧侶が集まって釈迦の説法を聞いている霊鷲山説法の場面です。

霊鷲山を仰ぎ見る俗人がわかるでしょうか。

浄土庭園にこめられた意味とは?

現在の浄瑠璃寺では、伽藍構成について、本堂に入堂する際手渡されるリーフレットなどで、次のように説明しています。

この寺は東の薬師仏をまつる三重塔、中央宝池、西の九体阿弥陀堂から成り立っている。寺名は創建時のご本尊、薬師仏の浄土である浄瑠璃世界からつけられた。薬師仏は東方浄土の教主で、現実の苦悩を救い、目標の西方浄土へと送り出す遣送仏である。阿弥陀仏は西方未来の理想郷である楽土へ迎えてくれる来迎仏である。薬師に遣送されて出発し、この現世へ出て正しい生き方を教えてくれた釈迦仏の教えに従い、煩悩の河を越えて彼岸にある未来をめざし精進する。そうすれば、やがて阿弥陀仏に迎えられて西方浄土へ至ることができる。この寺ではまず東の薬師仏に苦悩の救済を願い、その前で振り返って池越しに彼岸の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝である。

しかし、三重塔の安置仏が釈迦如来坐像だったとすると、この説明は成り立ちません。そこで講演後の質問時間に、三重塔に釈迦如来坐像が安置されている意味についてうかがいました。冨島先生によると、釈迦と阿弥陀が対面する伽藍構成の意味については、「浄瑠璃寺縁起」でも説明されているとのこと。その部分を再度引用します。

賛伝、(中略)東山三層塔、安釈尊坐像、西辺十一間大殿、九仏並耀光、二尊相向、二河白道有便、東而見西、地有直堂池有倒堂、西而看東、山有高塔、水有九輪、是以影仰覆世界、

ここでは、浄瑠璃寺の伽藍構成において、二尊が向かい合っていることが「二河白道(にがびゃくどう)」に例えられています。「二河白道」とは、7世紀の唐僧、善導が「観経疏」散善義で説いたたとえ話で、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生する信仰心を、北を逆巻く水の川、南を燃え滾る火の川にはさまれた、細く白い道になぞらえるものです。水の川は流されることから貪欲を表し、火の川は嫉妬や憎しみを表します。二河白道図では、手前の岸辺に立つ人物が盗賊や獣の群れに追い立てられるようすも描かれます。これら盗賊や獣の群れは、間違った考えや思い込みを表すとされます。

岸辺の人物が、この行くも還るも止まるも死を免れない状況で、思い切って白い道を進もうと足を踏み出したとき、東からは釈迦の「この道を行け」と勧める声が、また西からは阿弥陀の「来たれ」と呼ぶ声がします。釈迦の教えによって背中を押され、阿弥陀の来迎を得るべく、貪欲や憎悪を克服し、正しい道を歩む。浄瑠璃寺の伽藍構成は、こうした二河白道の譬喩を表現しているのだと「浄瑠璃寺縁起」は伝えています。

冨島先生によれば、荒っぽく言うと釈迦の教えを重んじる法華信仰は滅罪の教えであり、阿弥陀信仰とセットになっていることが多いのだといいます。現世の罪を滅した上で、阿弥陀に迎えられ、極楽往生を果たしたいという、当時の人々の願いが感じられます。

講演では浄瑠璃寺の大日如来坐像についても考察され、浄瑠璃寺や中川寺のある小田原一帯が、平安時代後期、新たな真言密教が展開する場でもあったことが指摘されました。

考えて見ると、浄瑠璃寺と比較されることが多い藤原道長の法成寺にしても、冨島先生が例示したように、中央の金堂には三丈二尺の大日如来像がまつられていたと伝わります。さらには藤原氏に恨みを持つ怨霊を調伏せんと五大堂が建立され、二丈の不動明王を中心に丈六の降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王が、往生を妨げる怨霊が現れぬよう四方に睨みを利かせていたといいます。

道長は、五大堂を出て池を渡り九体阿弥陀堂に入った後、九体の阿弥陀如来の手と自分の手をひもで結び、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわって、僧侶たちの読経の中、臨終を迎えたと言われます。その完璧な極楽往生を願ういじましいほどの必死さは、現代人には理解し難いものがあります。

平安後期の浄土教は密教の影響が色濃く、浄瑠璃寺の伽藍にもそのことが強く反映されているのはたしかのようです。末法の世におののき、極楽往生にすがる当時の人々の願いの強さを思うと、今、罪を滅してくれる釈迦の教えを頼みにすることは、より即物的というか現世利益的で、理にかなっているとも思いました。

浄瑠璃寺三重塔前の石段を下ると、すぐ前に、池に細長く突き出した州浜があります。今年修理を終えたばかりということもあって、白い玉石が敷き詰められた州浜は、あたかも水面に映る彼岸の阿弥陀堂へと続く、一本の白い道のようです。しかし、二河白道の譬喩からすると、その両側には恐ろしい火の川と水の川があるはずですが、その水面に映るのは四季折々に美しい山川草木のありさまです。そしてそれらすべてを見渡す北のお堂(かつて秘密荘厳院、真言堂と呼ばれ、現在は灌頂堂となっている)に、大日如来が隠されているというのは、思うになにやら意味深です。

ところで、今回の講演がたいへんおもしろかったことを、後日浄瑠璃寺の佐伯功勝住職にお伝えしたところ、ご住職も冨島先生の説はよくご存知でしたが、「その釈迦如来坐像がみつかっていないので、確証はないということなんですよねえ」と微妙なお顔。

現在の仏像の配置とその解釈も長年人々に受け入れられてきたものですから、私も最初は受け入れ難い気持ちが少しありました。ただ個人的に、「浄瑠璃」寺と言いながら、本堂に薬師如来がないことをずっと不思議に思っていたので、冨島先生の説は目から鱗が落ちる思いでした。

さて、件の釈迦如来坐像は今、いったいどこにあるのでしょうか。まだまだ謎は残ります。ちなみに、岩船寺三重塔の本尊も、元禄十年(1697)の「当尾郷寺社明細帳」では、「釈迦木仏」とされているそうですが、こちらも明治以降どうなったのか全くわかっていないとのことです。明治期に、塔に安置された釈迦如来像がそろって持ち去られるというのも興味深いところです。盗まれたのか、どこかの金持ちに売り飛ばされたのか、あるいは廃仏毀釈で本尊が失われたお寺に譲られたのか、その行方はようとして知れませんが、今も無事であることを願うばかりです。

※画像は、毎日新聞社「佛教藝術 318」(2011)の口絵(のコピー)を写真に撮ったもの。今回の講演がたいへんおもしろかったので、講演終了後その足で奈良県立図書情報館へ行って、講演の下敷きになった冨島先生の論文「浄瑠璃寺伽藍再考」をコピーしてきました。このレポートでは省略したことも詳細に論じられているので、興味のある方はぜひ入手してみてください!

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